なぜ俄に止めると言い出したのかと訊くと、その男は身をふるわせて、いや、実に怖ろしいことであった。あの家の店へはいると、帳場のわきに大きなすっぽんが炬燵《こたつ》に倚《よ》りかかっていたので、これは不思議だと思ってよく見ると、すっぽんでなくて亭主であった。おれは俄にぞっとして、もうすっぽんを食う気にはなれないので、早々に引っ返して来たのだという。それを聞くと、ほかの二人は溜息をついて、実はおれ達もおなじものを見たので、お前が止そうと言ったのを幸いに、すぐに一緒に出て来たのだという。その以来、この三人は決してすっぽんを食わなかったということです。それは作り話でなく、蒿蹊がまさしくその中のひとりの男から聴いたのだと言います。」
有年はやはり黙って聴いていた。※[#「さんずい+(廣−广)」、第3水準1−87−13]南は聴いてしまって溜息をついた。
「なるほど、そういう不思議が無いとはいえませんね。おい、一郎。おまえの叔父さんのようなこともあるからね。お前、あの話を曲亭先生のお耳に入れたことがあるか。」
「いいえ、まだ……。」と、有年は少し渋りながら答えた。
「こんな話の出たついでだ。おまえも叔父さんの話をしろよ。」と、※[#「さんずい+(廣−广)」、第3水準1−87−13]南はうながした。
「はあ。」
有年はまだ渋っているらしかった。有年の叔父という人は若いときから放蕩者で、屋敷を飛び出して何かの職人になっているとかいう噂を馬琴もたびたび聞いているので、その叔父について何か語るのを甥の有年もさすがに恥じているのであろうかと思いやると、馬琴もすこし気の毒になった。上野の五つ(午後八時)の鐘がきこえた。
「おお、もう五つになりました。」と、馬琴は帰り支度にかかろうとした。
「いや、まだお早うございます。」と、有年は押し止めた。「今もここの主人に言われたのですが、実はわたくしの叔父について一つの不思議な話があるのを、今から五年ほど前に初めて聴きました。まことにお恥かしい次第ですが、わたくしの叔父というのは箸にも棒にもかからない放蕩者で、若いときから町屋《まちや》の住居をして、それからそれへと流れ渡って、とうとう左官屋になってしまいました。それでもだんだんに年を取るにつれて、職もおぼえ、人間も固まって、今日《こんにち》ではまず三、四人の職人を使い廻してゆく親方株になりましたので
前へ
次へ
全8ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング