小雛は急に立ちすくんでしまった。どうしたのだと熊吉が訊くと、一、二間さきに一匹の大きい牛が角を立てて、こっちを睨むように待ち構えているので、怖くって歩かれないという。今夜の月は昼のように明るいが、熊吉の眼には牛はもちろん、犬の影さえも見えない。牛なんぞいるものかと言っても、小雛は肯かない。たしかに大きい牛が眼を光らせて、近寄ったら突いてかかりそうな権幕で、二人の行く手に立塞がっているというのだ。
 うしろからは怪しい奴が追って来る。うかうかしてはいられないので、熊吉は無理に小雛の手を引摺って行こうとするが、女は身をすくめて動かない。これには熊吉も持て余したが、まさかに女を捨ててゆくわけにも行かないので、よんどころなく引っ返して、河岸《かし》づたいに道を変えて行こうとすると、捕り方は眼の前に迫って来た。そこで捕物の立廻り、熊吉はとうとう召捕りになって、小雛と共に引っ立てられるので幕……。それからだんだん調べられると、小雛はたしかに牛を見たという。熊吉は見ないという。捕り方も牛らしい物は見なかったという。夜ふけの橋の上に、牛がただうろうろしている筈はないから、見ないという方が本当らしい。な
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