の福井という紙屋の旦那と亀戸の初卯詣《はつうもうで》に出かける筈で、土地の松屋という船宿から船に乗って、今や桟橋を離れたところへこの騒動だ。船頭はいっそ戻そうかと躊躇していると、旦那はあとへ戻すのも縁喜が悪い、早く出してしまえという。そこで、思い切って漕ぎ出して、やがて大川のまん中まで出ると、方々の家から逐われた牛は、とても柳橋寄りの河岸へは着けないと諦めたものか、今度は反対に本所寄りの河岸にむかって泳ぎ出した。それを見ておどろいたのは小雛の船だ。
 取分けて、小雛は蒼くなっておどろいた。広い川だから大丈夫だと、旦那がなだめてもなかなか肯《き》かない。もちろん牛はこの船を狙って来るわけではあるまいが、さっきからの闘いで余程疲れているらしく、ややもすれば汐に押流されて、こちらの船に近寄って来るようにも見えるので、旦那もなんだか不安になって、早くやれと船頭に催促する。船頭も一生懸命に漕いでいると、牛はもう弱ったと見えて、その姿はやがて水に沈んでしまったので、まあよかったと小雛はほっとする間もなく、一旦沈んだ牛はどう流されて来たのか、水から再び頭を出した。それがちょうど小雛の船の艫にあたる所
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