が、舞台は変って四年の後、天保七年九月の中頃……。」
「芝居ならば暗転というところですね。」
「まあ、そうだ。その九月の十四日か十五日の夜も更けたころ、男と女の二人づれが、世を忍ぶ身のあとやさき、人目をつつむ頬かむり……。」
「隠せど色香梅川が……。」
「まぜっ返しちゃあいけない。その二人づれが千住の大橋へさしかかった。」
「わかりました。その女は小雛でしょう。」
「君もなかなか勘がいいね。女は柳橋の小雛で、男は秩父の熊吉、この熊吉は巾着切《きんちゃっきり》から仕上げて、夜盗や家尻切《やじりきり》まで働いた奴、小雛はそれと深くなってしまって、土地にもいられないような始末になる。男も詮議がきびしいので江戸にはいられない。そこで二人は相談して、ひとまず奥州路に身を隠すことになって、夜逃げ同様にここまで落ちて来ると、うしろから怪しい奴がつけて来る。それが捕り方らしいので、二人も気が気で無い。道を急いで千住まで来ると、今夜はあいにくに月が冴えている。
 世を忍ぶ身に月夜は禁物だが、どうも仕方がない。二人は手拭に顔をつつんで、千住の宿《しゅく》を通りぬけ、今や大橋を渡りかけると、長い橋のまん中で小雛は急に立ちすくんでしまった。どうしたのだと熊吉が訊くと、一、二間さきに一匹の大きい牛が角を立てて、こっちを睨むように待ち構えているので、怖くって歩かれないという。今夜の月は昼のように明るいが、熊吉の眼には牛はもちろん、犬の影さえも見えない。牛なんぞいるものかと言っても、小雛は肯かない。たしかに大きい牛が眼を光らせて、近寄ったら突いてかかりそうな権幕で、二人の行く手に立塞がっているというのだ。
 うしろからは怪しい奴が追って来る。うかうかしてはいられないので、熊吉は無理に小雛の手を引摺って行こうとするが、女は身をすくめて動かない。これには熊吉も持て余したが、まさかに女を捨ててゆくわけにも行かないので、よんどころなく引っ返して、河岸《かし》づたいに道を変えて行こうとすると、捕り方は眼の前に迫って来た。そこで捕物の立廻り、熊吉はとうとう召捕りになって、小雛と共に引っ立てられるので幕……。それからだんだん調べられると、小雛はたしかに牛を見たという。熊吉は見ないという。捕り方も牛らしい物は見なかったという。夜ふけの橋の上に、牛がただうろうろしている筈はないから、見ないという方が本当らしい。な
前へ 次へ
全6ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング