だったので、旦那も船頭もぎょっとした。小雛はきゃっ[#「きゃっ」に傍点]といって飛び上がる途端に、船は一方にかたむいて、よろける足を踏み止めることが出来ず、旦那があわてて押えようとする間に、小雛は川へころげ落ちた……。」
「やれ、やれ、飛んだ事になりましたね。」

     下

 老人は話しつづける。
「小雛も柳橋の芸者だから、家根船に乗るくらいの心得はあったのだろうが、はずみというものは仕方のないもので、どう転んだのか、船から川へざんぶりという始末。これも一旦は沈んだが、また浮き上がると、その鼻のさきへ牛の頭……。こうなれば藁でもつかむ場合だから、牛でも馬でも構わない。小雛は夢中で牛の角にしがみついた。もう疲れ切っているところへ、人間ひとりに取付かれては、牛もずいぶん弱ったろうと思われるが、それでもどうにかこうにか向う河岸まで泳ぎ着いて、百本|杭《ぐい》の浅い所でぐたりと坐ってしまった。小雛は牛の角を掴んだままで半死半生だ。そこへ旦那の船が漕ぎ着けて、すぐに小雛を引揚げて介抱する。櫛や笄《こうがい》はみんな落してしまい、春着はめちゃめちゃで、帯までが解けて流れてしまったが、幸いに命だけは無事に助かったので、大難が小難と皆んなが喜んだ。命に別条が無かったとはいいながら、あんまり小難でもなかったのさ。」
「その牛はどうしました。」
「牛も半死半生、もう暴れる元気もなく、おとなしく引摺られて行った。なにしろ大伝馬町の川口屋も災難、自分の店の初荷からこんな事件を仕出来《しでか》して、春早々から世間をさわがしたので、それがために随分の金を使ったという噂だ。さもないと、どんなお咎めを受けるかも知れないからな。自分の軒に立てかけてある材木が倒れて人を殺しても、下手人《げしゅにん》にとられる時代だ。これだけの騒動を起した以上、牛の罪ばかりでは済まされない。殊にこっちが大家《たいけ》では猶更のことだ。」
「そうですか。成程これで、牛と新年と芸者と……。三題話は揃いました。いや、有難うございました。」
「まあ、待ちなさい。それでおしまいじゃあない。」
「まだあるんですか。」
「それだけじゃ昔の三面記事だ。まだちっと話がある。」と、老人はまじめに言い出した。「年寄の話はとかくに因縁話になるが、その後談を聴いてもらいたい、今の一件は天保三年正月の出来事で、それはまあそれで済んでしまった
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