岡本綺堂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)丑《うし》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)両|角《つの》にかけて、

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)わっ[#「わっ」に傍点]と言って
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     上

「来年は丑《うし》だそうですが、何か牛に因《ちな》んだようなお話はありませんか。」と、青年は訊く。
「なに、丑年……。君たちなんぞも干支《えと》をいうのか。こうなるとどっちが若いか判らなくなるが、まあいい。干支にちなんだ丑ならば、絵はがき屋の店を捜してあるいた方が早手廻しだと言いたいところだが、折角のおたずねだから何か話しましょう。」
 と、老人は答える。
「そこで、相成るべくは新年にちなんだようなものを願いたいので……。」
「いろいろの注文を出すね。いや、ある、ある。牛と新年と芸妓と……。こういう三題話のような一件があるが、それじゃあどうだな。」
「結構です。聴かせてください。」
「どうで私の話だから昔のことだよ。そのつもりで聴いて貰わなけりゃあならないが……。江戸時代の天保三年、これは丑年じゃあない辰《たつ》年で、例の鼠小僧次郎吉が召捕りになった年だが、その正月二日の朝の出来事だ。」
 と、老人は話し出した。
「今でも名残をとどめているが、むかしは正月二日の初荷、これが頗る盛んなもので、確かに江戸の初春らしい姿を見せていた。そこで、話は二日の朝の五つ半に近いころだというから、まず午前九時ごろだろう。日本橋大伝馬町二丁目の川口屋という酒屋の店さきへ初荷が来た。一丁目から二丁目へかけては木綿問屋の多いところで俗に木綿店《もめんだな》というくらいだが、この川口屋は酒屋で、店もふるい。殊に商売であるから、取分けて景気がいい。朝からみんな赤い顔をして陽気に騒ぎ立てている。
 初荷の車は七、八台も繋がって来る。いうまでもないが、初荷の車を曳く牛は五色の新しい鼻綱をつけて、綺麗にこしらえている。その牛車が店さきに停まったので、大勢がわやわや言いながら、車の上から積樽をおろしている。そのあいだは牛を休ませるために、綱を解いて置く。すると、ここに一つの騒動が起った。というのは、この朝は京橋の五郎兵衛町から正月早々に火事を出して、火元の五郎兵衛町から北紺屋町、南伝馬町、白魚屋敷のあたりまで焼いてしま
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