蟹満寺縁起
岡本綺堂
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)漆間《うるま》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)※[#歌記号、1−3−28]|蛙《かえる》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#歌記号、1−3−28]
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登場人物
漆間《うるま》の翁《おきな》
嫗《うば》
娘
里の青年《わかもの》 (坂東三吉)
蟹
蛇
蛙
里のわらべなど
[#改ページ]
(一)
時代は昔、時候は夏、場所は山城国。久世郡《くぜのこおり》のさびしき村里。舞台の後方はすべて蓮池にて、花もひらき、葉も重なれり。池のほとりには柳の立木あり。
(男女の童《わらべ》三は唄い連れていず。)
唄※[#歌記号、1−3−28]|蛙《かえる》釣ろうか、蟹釣ろか、蓮をかぶった蛙を釣ろか、はさみを持った蟹釣ろか。
(三人は池にむかって手をたたきながら、一と調子はりあげて又唄う。)
唄※[#歌記号、1−3−28]蛙釣ろか、蟹釣ろか。水にとび込む蛙を釣ろか、穴にかくれた蟹釣ろか。
(わらべ等は唄い終りて、更にはじめの唄をくり返しつつあゆみ去る。水の音しずかにきこゆ。蓮の葉をかき分けて、小さき蛙は頭に大いなる蓮の葉をかぶりておどりいず。)
蛙 ええ、さうぞうしい餓鬼共だ。子供というものはなぜああ騒ぎたいのだろう。いや、そう云えば俺だって子供だ。陰《くも》ってあたたかい静かな晩などは、なにか一つ唄ってみたいような気がして、精一ぱいの大きな声を出して、あたり構わずにぎゃあぎゃあ呶鳴ることもあるから、あんまり人間の悪口も云えまいよ。いたずらっ児ももう行ってしまったようだ。おれも一番陽気に唄ってやろうか。
(蛙はあたりを見まわして、唄いながら踊る。)
蛙 人を釣ろうか、こどもを釣ろか。死んだ振して子供を釣ろか。……ああ、面白い、面白い。
(蛙は蓮の葉を地にしきて坐す。柳のかげより大いなる赤き蟹いず。蟹は武装して、鋏のごとき刃をつけたる長刀《なぎなた》を携えたり。)
蛙 やあ、蟹の叔父さんだね。
蟹 人間の子供もそうぞうしいが、おまえも随分そうぞうしいな。あけても暮れても騒いでいる。蛙の子は蛙とはよく云ったものだ。おれ達を見習ってちっと黙っていろ。
蛙 蟹の叔父さんのように黙っていると、おらあ病気になってしまうよ。こうして時々に陸《おか》へあがって来て、唄ったり踊ったりするのが何よりの楽しみなんだ。
蟹 陸には怖いものがいるのを知らないか。
蛙 人間の子供なんか、怖いものか。あいつ等がつかまえに来れば、おらあすぐに水に飛び込んでしまうから大丈夫だ。
蟹 おまえ達には人間よりももっと怖いものがいるぞ。
蛙 なんだろう。(考える。)むむ。蛇か。
蟹 その蛇だ。蛇は人間よりも足がはやい。木のかげや草のあいだに隠れていて、お前たちの姿を見付けると、不意にするすると駈けて来て、あたまから一と呑みに呑んでしまうぞ。蛇はおまえ達に取っては何よりもおそろしい敵だ。蛇にみこまれたが最後、とても逃がれることは出来ないのだから、そのつもりで用心しろ。
蛙 蛇はそんなに強いかねえ。
蟹 おまえ達よりも確かに強い。
蛙 じゃあ、叔父さんだってかなわないだろう。
蟹 いや、おれはこの通り頑丈な甲《よろい》で身をかためている。おまけに[#「おまけに」は底本では「おまえに」]こういう鋭い武器をもっているから、蛇の方で却って怖がるくらいだ。
蛙 なるほど叔父さんは強そうだね。おらあこの通り小さいから弱いのだ。
蟹 それだから早く大きくなれ。大きくなって強いものになれ。お前だって強くなれば、小さな蛇ぐらいはあべこべに呑んでしまうことができるのだ。おれも昔は弱いものであった。敵を見るとすぐ逃げて隠れたものだけれども、今はこんなに大きい強い者になったから、大抵の敵が来たって驚きはしない。こっち[#「こっち」は底本では「こつち」]から向って行って、鋏でチョン切ってしまうのだ。俺ばかりではない。どこの世界でも強いものが勝つのだ。
蛙 じゃあ、叔父さん、強い叔父さん。もしもここへ蛇が来たら、おまえ後生だから助けてくれないか。
蟹 よし、よし、俺がきっと救ってやるから、安心して遊んでいろ。おれはあの木のかげへ行って、甲羅《こうら》をほしながら午睡《ひるね》をしているから、なにか怖い者が来たら、すぐに俺をよべ。いいか。
蛙 おまえが加勢してくれれば安心だ。じゃあ、頼むよ。
蟹 よし、よし。
(蟹は再び柳のかげに入る。)
蛙 さあ、蟹の叔父さんが味方をしてくれるから大丈夫だ。もう少しここらで遊んでいようか。や、向うから誰か来るようだぞ。蛇やいたずらっ児とは違って美しい娘だ。俺をひどい目に逢わすようなこともあるまい。平気で唄でも唄っていろ。いや、そうでない。人は見かけに寄らぬものだ。まあ、一旦は隠れてた方が無事かも知れない。
(蛙は池にとび込みて、蓮の葉のかげにかくれる。漆間《うるま》の翁の娘、衣《きぬ》を洗わんとていず。)
娘 きょうもどうやら陰《くも》って来た。降らないうちにこの着物を洗って置こうか。(池をのぞく。)おお、池の水も澄んでいる。
(娘は池のほとりに立寄りて衣《きぬ》を洗う。蛙の声きこゆ。)
娘 おお、蛙が面白そうに唄っている。わたしも負けない気になって唄おうか。いや、いや、どこにどんな人がいまいものでも無い。人に聞かれたら恥かしい。まあ、まあ、黙って洗いましょう。
(蛙はしきりに鳴く。娘は衣《きぬ》を洗いおわる。)
娘 まあ、これでよし。そこの枝にかけて乾《ほ》して置きましょう。
(娘は柳の樹に衣《きぬ》をかけて去る。蓮の葉をかき分けて、蛙は再びいず。)
蛙 あの娘も遠慮せずに何か唄えばいいのに……。おれ達のは唄うと云っても、唯むやみに呶鳴るのだが、ああいう美しい娘の喉《のど》からは、さだめて鈴のような可愛らしい声が出るだろう。どうかして一遍聞きたいものだ。時に蟹の叔父さんはどうしたろうな。相変らず口から泡をふいて高いびきで寝ているのだろうな。(柳の蔭をのぞく。)なるほど、強いものは違ったものだ。こんなところでいい心持そうに寝ているな。一体、きょうは風も吹かず、日も照らず、なんだか薄ら眠いような日和だ。おれもさっきから唄いくたびれたから、ここらで一と寝入りやらかすかな。これを頭にかぶっていれば、誰もちょいと気がつくまいよ。
(蛙は蓮の葉をかぶりて寝る。蛇いず。頭には蛇をいただきて、身には鱗の模様ある衣《きぬ》を被たり。)
蛇 このごろは蛙もなかなか利口になって、遠くからおれの姿を見ると、すぐに水へ飛び込んでしまうから、容易にこっちの口へ入るようなことがない。なんでも油断しているところを不意に飛び付いて、一と息に呑んでしまわなければいけないのだ。(云いつつかの蓮の葉に眼をつける。)や、あの蓮の葉がおかしいぞ。どれ、どれ。
(蛇は進んで蓮の葉のそばへ行き、足にて軽くうごかせば、蛙は葉のあいだより顔を出し、蛇を見るよりはっと縮まる。)
蛇 案の定《じょう》、こんなところに隠れていた。さあ、もう逃がしはしないぞ。おとなしくしていろ。
(蛙は葉をかぶりしまま逃げんとす。)
蛇 ええ、逃げても駄目だぞ。おれにみこまれたらもう一と足でも動けるものか、はははははは。
(蛙は小さくなりてうずくまる。蛇はしずかにねらい寄る。蛙は這いながら逃げまわる。以前の娘又もや衣《きぬ》をかかえていず。)
娘 どうしても明日《あした》は雨らしい。降らないうちにもう一枚洗って置こう。(云いつつ歩み来たりしが、このていを見るより走り寄る。)まあ、待ってください。可哀そうにこんな小さな蛙をどうするのです。
蛇 どうするといって、強いものに出逢った弱い者の運命は大抵きまっているのだ。
娘 でも、あんまり可哀そうで……。まあ、御らんなさい。あんなに小さくなってふるえていますよ。
蛇 今にふるえることも出来なくなるのだろう。
娘 後生《ごしょう》ですからその蛙を堪忍してやってくださいな。今わたしがあの着物を洗っていたときに、面白そうに唄っていたのはきっとあの蛙でしたよ。
蛇 そうかも知れない。誰でも運命の手に掴まれるまでは、なんにも知らずにいるものだ。
娘 なんにも知らずにいる者を殺すのはあんまり可哀そうでしょう。無慈悲でしょう。
蛇 可哀そうでも仕方がない。今もいう通り、弱いものは強い者に呑まれるのだ。おれが決めたのではない、神様がそう決めたのだ。
娘 でも、あんまりむごいことを……。
(蛙は救いを求むるがごとくに、娘の袖のかげに隠れる。)
娘 後生だからこの蛙を助けてやって下さいな。わたしが頼みますから……。
蛇 おまえが頼むか。
娘 この通り、拝みますから。
蛇 よし、ゆるしてやろう。
娘 ほんとうですか。まあ、嬉しい。(蛙にむかいて。)さあ、お前、早くお逃げよ。これにこりて、もううっかりと陸《おか》へ上がるんじゃないよ。
(蛙は喜びて早々に池へ逃げ去る。)
娘 御覧なさい。あの通り喜んで逃げて行きましたよ。ああ、わたしはほんとうによい功徳《くどく》をしました。
蛇 お前はほんとうに善いことをした。
娘 こんな嬉しいことはありません。
蛇 それでおれはお前のたのみをきいた。その代りにお前もおれの頼みをきくだろうな。
娘 お前の頼みというのは……。
蛇 おまえの婿になりたい。
娘 え。
蛇 おまえのような美しい女の婿になりたいのだ。
娘 でも、親達が承知しないでは……。
蛇 親達などはどうでもよい。おれはお前と約束したのだ。
(娘は恐れて黙す。)
蛇 おまえの家はちゃんと知っている。今夜、酉《とり》の刻の鐘が鳴るのを合図に、おれはお前のところへ婿入りするのだ。いいか、忘れるなよ。
(云い捨てて蛇はしずかに歩み去る。娘はしばらく茫然としている。)
娘 さあ、大変なことになってしまった。あの蛇がわたしのところへ婿に来る……。まあ、どうしたらよかろう。蛇は執念が深いというから、一旦みこまれたが最後、どこまでもわたしに附きまとって来るに相違ない。あの蛇が……。あのおそろしい、いやらしい蛇がわたしのところへ婿に来る……。ええ、かんがえてもぞっとする。わたしがもっと強ければ、蛇なんか幾匹押し掛けてたって、門口《かどぐち》から追い払ってしまうのだけれども、わたしは女だ……弱い女だ。おとっさんやおっかさんも年をとっている。わたしの家には強いものは一人もないのだ。こうと知ったらあの蛙を救ってやるのではなかったものを……。ああ、わたしは飛んだことをして、飛んだものにみこまれてしまった。
(雨少しくふりいず。娘は空をあおぐ。)
娘 いつの間にか雨が降って来た。(柳にかけたる衣《きぬ》をはずす。)今夜はきっと雨が降って、暗いものすごい晩に相違ない。おそろしい蛇が……執念ぶかい蛇が……どんな姿をして来るだろう。(身をふるわせる。)ああ、どうしたらよかろう。ここで泣いていても仕様がない。ともかくも早く家へ帰って、おとっさんやおっかさんと相談するよりほかはあるまい。早くそうしましょう。
(娘は二つの衣《きぬ》をかかえ、しおしおとあゆみ去る。柳のかげより蟹いず。)
蟹 いい心持で午睡《ひるね》をしている枕もとで、泣いたり笑ったり、がやがや騒ぐので、すっかり眼がさめてしまった。あの蛙め、早くおれを呼び起せばいいのに、蛇にみこまれてふるえ上がって、もう声も出なくなったのだろう。ほんとうに弱い奴だ。(あざわらう。)しかし又、あの娘さんもあんまり無考えだな。いくら蛙が可哀そうだといって、自分も弱い女の癖に、うっかり差し出るからこんなことになるのだ。
(蛙の声きこゆ。)
蟹 蛙の奴め。自分の代りにあの美しい娘を人身御供《ひとみごくう》にして置きながら、平気で面白そうに唄っているが、娘の家では今ごろ大騒ぎをしているだろう。可哀そうなものだな。
(二)
おなじ里、漆間《うるま》の翁の宿。
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