舞台にあらわれたる家の中はすべて土間にて、奥の間には古き簾《すだれ》を垂れたり。上のかたに大いなる土竈《どべっつい》ありて、消えかかりたる藁《わら》の火とろとろと燃ゆ。土間には坐るべき荒むしろと、腰をかくべき切株などあり。ほかに鋤《すき》鍬《くわ》の農具あり。打ちかけたる藁屑《もくず》など散乱す。下のかたには丸太を柱ととしたる竹門あり。門の外には大樹あり。樹の間がくれにかの蓮池遠くみゆ。
(白髪の翁と嫗は竈のまえに語る。)
嫗 どうも困ったことが出来《しゅったい》したが、お前さんはまあどうするつもりだね。
翁 どうするといって、これも因果とあきらめるよりほかはあるまい。
嫗 あきらめられるお前さんはしあわせだ。わたしにはどうしてもあきらめられない、十七のとしまで大事に育てた、かけがえの無いひとり娘を、おそろしい蛇の人身御供《ひとみごくう》にするのを黙ってあきらめていられるお前さんは、ほんとうに羨ましい。
翁 ええ、もう泣いてくれるな。おれだって人間だものを……。可愛い娘が蛇にみこまれたと思えば、おそろしいやら悲しいやらで、涙が胸一杯にせき上げて来るのを、歯をくいしばってじっと我慢しているのだ。そばでお前に泣かれると、俺ももう我慢ができなくなる。まあ、仕方がない。あきらめろよ。
嫗 どう考え直しても、わたしには我慢もあきらめも付かない。まあ、なんたる情けないことだろう。あんな美しい可愛い娘を……。
翁 もう、もう、止してくれ。後生だから……。無い昔とあきらめてくれ。
嫗 いっそ無い昔なら苦労もなかったろうが、夫婦が四十を越すまで子というものが無いのをかなしんで、弁天様に三七日の願をかけたら、その奇特《きどく》であんな美しい娘が生まれた。やれ、嬉しやと手塩にかけて生長させ、近いうちに相当の婿を取って、わたし達もまず安心しようと楽しんでいると……。
翁 とんでもない婿が出来た。(つぶやく。)
嫗 ほんとうに、飛んでもない災難が降ってわいて、大事の娘を蛇に取られる。かんがえてもぞっとして身の毛がよだつような。もし、なんとかして娘を助ける工夫は……。ああ、わたしはもう気ちがいになりそうになって来た。
(夫のそばにすり寄る。翁はじっと頭《かしら》を垂れている。)
翁 まあ、騒いでくれるな。きちがいになるなら、おれの方が先になる筈だ。弁天様にお願い申して出来た子だから、蛇にとり返されるのも自然の約束だろうよ。蛇は弁天様の使わしめだ。
嫗 そう云いながら、お前さんだって泣いているじゃあないか。
翁 さっきから泣くまいと一生懸命にこらえているのに、おまえがそばからいろいろな愚痴を云うので、おれも我慢が出来なくなって来たのだ。
嫗 やせ我慢をしないで、泣きたいだけ泣いた方がいい。子を取られて泣く親のなみだが、神様のお目にとまって、思いもよらぬ御救いがないとも限らないから……。
翁 なんの、神様も仏様もあったものじゃあない。あてにもならないことをあてにしているうちに、時は猶予なくたってゆく。酉の刻にはもう半※[#「日+向」、第3水準1−85−25]《はんとき》もあるまいよ。
(翁はうつむきて嘆息す。嫗も泣く。奥の簾をかかげて娘いず。)
娘 おふたりともにもう泣いてくださるな。わたしは覚悟をきめています。
嫗 おお、娘……。(走り寄って娘を抱く。)おまえの覚悟は決まっても、わたし達の覚悟は容易にきまるものじゃあない。どうしても怖ろしい婿は来るかねえ。
娘 酉の刻の鐘を合図に、きっと来ると云いました。
翁 その鐘もやがて鳴るであろう。
嫗 お前は一体なぜそんな約束をしたのだ。蛇が蛙を呑むのはあたりまえのことだから、構わずに打っちゃっておけばいいのに……。
娘 あんまり可哀そうでしたから、つい助けてやる気になったのですが、今更思えばそれが悪かったのです。わたしもやっぱり蛙と同じように、弱い者であったのでした。
翁 おれも蛇よりは弱いのだ。
嫗 ここの家には蛇より強いものはひとりも居ないのだ。
娘 弱いものを救うには自分が強い者でなければならないということを、今初めてさとりました。自分をまもってゆくほどの力も無い者が、ひとを救おうとしたのはあやまりでした。もう仕方がありません。わたしは覚悟して時刻の来るのを待っていましょう。
嫗 待っていてそれからどうなるだろう。かんがえても怖ろしいことだ。
翁 むかしの稲田姫は八股《やつまた》の大蛇《おろち》に取られるところを、素盞嗚尊《すさのおのみこと》に救われたが、ここにはそんな強い男もあるまいよ。
嫗 それでもこのままに娘は渡されまい。約束の時刻になったなら、蛇がどこからもはいって来られないように、四方の戸をしっかりと閉め切って、夜の明けるまで張番をして居ようかと思うが……。
翁 でも、あしたの晩もまた来るだろう。
嫗 あしたも明後日《あさって》も、三日も五日も十《とお》日も、一と月も二た月も、毎晩強情に防いでいたら、いくら執念深い蛇でもあきらめて、しまいには来なくなるかも知れない。
翁 おまえがあきらめられぬと同じことで、むこうも容易にはあきらめまい。根《こん》くらべならやっぱり強い者の方が勝つわ。
(三人は顔を見あわせて嘆息す。里の青年《わかもの》一人、太刀をはき、弓矢をたずさえていず。)
青年 もし、もし。
翁 や、もう来たのか。
(嫗はあわてて娘を我がうしろに隠す。翁はうろうろする中に、青年《わかもの》は進み入りて顔を見合わせる。)
翁 おお、お前さんか。まあ、よかった。
青年 どうも飛んだことが出来《しゅったい》したそうですね。
嫗 では、もう知っていなさるのか。
青年 さっき娘御から聞きました。しかし御安心なさるがよろしい。その蛇が来たら私が退治してみせます。
翁 お前さんが退治してくれるか。
嫗 ほんとうに蛇を退治してくださるか。
青年 わたしが素盞嗚尊になりましょう。私にはこの弓と矢があります。
翁 おまえさんは弓が上手かね。
青年 空を飛ぶ鳥でもかならず射落します。蛇が今夜ここへ襲って来たら、まず一の矢でそのひかった眼を射透してみせます。二の矢でその咽喉を射ぬいて見せます。大丈夫だから御安心下さい。
嫗 ありがとうございます。お前さんがその弓と矢で、おそろしい蛇を退治してくだされば、娘も助かります。わたし達夫婦も助かります。娘、もう大丈夫だよ。おまえはきっと助かるから……。
娘 助かるでしょうか。
嫗 この人は強いのだよ。
娘 強いでしょうか。
青年 わたしは自分でも強いものだと信じています。
翁 お前さんはほんとうに強そうだ。やれ、やれ、これでようよう安心した。
嫗 わたしもようよう落付いた。
娘 安心ができましょうか。
翁 そんな心細いことを云うものではない。なんでも気を強くもっていろよ。
(雨の音薄くきこゆ。人々は表を窺う。)
青年 おお、雨がまた降って来た。
翁 もう日が暮れるなあ。
青年 今のうちに弓の弦《つる》でも張って置こうか。
(青年は弓の弦を張る。翁は立寄って見る。)
翁 なるほど、太い弦だ。これを強く張って矢を放したら、鉄の鎧でも射透すだろう。
嫗 いくら大きな蛇でも急所を射られてはたまるまい。
(青年はほほえみながら弦打《つるうち》二三度して、弓をかたえの壁に立て、更に太刀をぬきてすかし視る。)
青年 この剣《つるぎ》で蛇の頭を切るのです。
翁 おお、なるほど。これもよく切れそうな刀だ。
青年 この通りにとぎ澄ましてあります。
嫗 憎い蛇めをずたずたに切ってやりたいものだ。
(青年は太刀を鞘に収める。雨の音いよいよ烈し。)
翁 雨がだんだんに強くなって来たぞ。
嫗 内も外も暗くなって来た。
娘 風も少し吹き出したとみえて、草や木がざわざわ鳴っています。
青年 怪しい物の出そうな晩ですな。
(人々は顔を見あわせて、ようやく不安の念に襲わる。)
娘 もうやがて鐘がきこえるでしょう。
翁 むむ。
(人々は息をのんで待つ。やがて酉の刻の鐘きこゆ。)
嫗 おお、鐘が鳴った。
青年 鐘が鳴りました。
(鐘の音つづいてきこゆ。娘は思わず母にすがる。嫗は娘を抱きよせて、あたりに眼を配る。翁は入口の門をしかとしめて錠をおろす。)
翁 こうして置けば大丈夫だ。いや、まだ裏口が不安心だ。
(翁はあわてて奥へ走り入る。)
嫗 (声を低める。)蛇はいよいよ来るでしょうか。
青年 来るでしょう。しかし御安心なさい。
嫗 大丈夫でしょうか。
青年 大丈夫です。
(翁は再び奥よりいず。)
翁 もう何処もかしこもすっかり閉めて来たから、大丈夫だ。家には鼠が潜り込むほどの隙間もないぞ。
(雨風の音きこゆ。娘は物におそわれたように叫ぶ。)
娘 あれ、あれ、門《かど》に……。
嫗 (怖るおそる門をのぞく。)いや、外は真闇で、雨が降っているばかりだ。誰も来やあしない。
娘 でも、なんだか跫《あし》音が……。
嫗 しっかりおしよ。怖くはないよ。
青年 わたしがここにいます。
(しばしの沈黙。やがて一種の音して、青年《わかもの》の張りたる弓の弦は自然に切れる。人々おどろく。)
青年 や、弓の弦が切れた。
翁 あんなに太い弦が自然に切れた。
(人々は顔をみあわせてしばらく黙す。)
青年 どうも不思議なことがあるものだ。(考える。)弓が役に立たなければ、これで防ぎます。
娘 (又もや叫ぶ。)あれ、あれ。
嫗 なんにも来やあしないよ。
青年 わたしはこの剣を持っています。どんな魔物でも名剣の威徳にはかないません。これをじっと見ておいでなさい。自然に気が鎮まります。
(太刀を娘の前に差付けると、太刀は鍔ぎわより自然に折れる。今度は声を出すものなく、人々はただ黙して眼を見あわせ、いよいよ恐怖の念に襲わる。)
翁 ああ、駄目だ、駄目だ。おまえさんもやっぱり駄目だ。
(青年《わかもの》は残念そうに折れたる太刀をながめて立つ。しばしの沈黙。蛇は衣冠を着け、優美なる姿にて奥よりあらわる。)
翁 ああ、婿が来た。
嫗 え。(いよいよ娘を抱きしめる。)
蛇 約束の通り、婿に来たぞ。祝言の用意は出来ているか。
(人々答えず。)
蛇 酒の用意はあるだろうな。
翁 酒は沢山にたくわえてあるから、飲みたいだけ飲んでください。ほかにも欲しいものがあるならば、なんでも上げます。
蛇 それだから娘を貰いに来たのだ。
翁 その娘だけは……。どうぞ堪忍してくださるまいか。
嫗 ほかのことなら何でもききますから、どうぞこればかりは……。この通り、拝みます。
蛇 お前達はなんにも云わぬがよい。娘はとうに承知しているのだ。
青年 いや、その娘も不承知です。
蛇 お前もだまっていろ。今更故障を云うと、お前たちの為になるまい。これ、よく見ろ。おれの大きい眼はみがいた鏡のようにかがやいている。この眼で一度睨めば大抵のものは縮んでしまうぞ。おれの口には赤い舌が火のように燃えている。この口を一度あけば大抵のものは一と息に呑んでしまうぞ。もう一度よく見ろ。おれのからだには鉄のような鱗が一面に生えている。この鱗をさか立てると大抵の矢も刀もとおすことはできないぞ。おれはこれほどの武器をもっているのだ。それを知らずに防ごうとするのは馬鹿な奴だ。
(青年《わかもの》を見てあざ笑う。青年は太刀の柄をすてて、更に弦の切れたる弓を取りしが、容易にかかり得ず、徒《いたず》らに睨みいるのみ。)
蛇 さあ、娘。こっちへ来い。
(蛇は袖をあげて差し招けば、娘は母の手を放れてふらふらと歩みゆく。蛇は娘の手を取りて奥に入る。翁と嫗とは茫然としてそのあとを見送る。)
青年 残念だが仕方がない。私にはひとを救うほどの力がないのか。
(青年《わかもの》は持ったる弓をなげ捨つ。やがて奥にて凄まじき物音きこゆ。)
翁 や、あの物音は……。
嫗 娘が長い蛇に巻かれて苦しんでいるのではあるまいか。
翁 どうかして助ける工夫は無いかなあ。
(翁と嫗とはうろうろして奥を窺ううちに、奥より蛇は髪をふり乱して走りいず。蟹は赤き甲《よろい》をつけ、かの長刀《なぎなた》を持ちて追い出ず。)
蟹 卑怯者め。逃げ
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