るな。
(蟹は長刀を揮ってかかる。蛇は口より火をふきて奮闘。遂に蟹のために切倒さる。)
翁 さすがの蛇も蟹にはかなわないと見えて、長い鋏でずたずたに切られてしまった。やれ、やれ、ありがたい。これでまず安心した。
嫗 それにしても娘はどうしたろう。
(娘は奥よりいず。)
嫗 おお、娘。無事でいてくれたか。
翁 おお、娘……。(走り寄って娘を抱く。)
娘 おっかさん。
嫗 助かったか。
娘 助かりました。おそろしい蛇にまき付かれて、どうなることかと思っていましたら、この強い蟹がどこからかはいって来て、長い鋏で蛇を追いはらってくれました。
蟹 追い払ったばかりでない。二度とわざわいをなさないように、この通り亡ぼしてしまった。
青年 なるほど、お前は強いな。
蟹 おれは強い。強ければこそ弱いものを救ったのだ。弱い者が弱いものを救おうとするのは、泳ぎを知らぬ者が水に溺れたものを救おうとするようなもので、両方ともに沈んでしまうばかりだ。弱いものを救いたければ、自分がまず強いものになれ。おれのような強い者になって、弱いものを救うのが自然の順序だ。弱い奴等ばかりが蛆虫のようにあつまって、口のさきで慈悲の情けのと騒いでいるばかりでは、いつまでたっても際限《はてし》があるまい。所詮は強い者の世の中だ。みんなも精出して強くなれ。世間に強いものが多くなれば、弱いものは自然に救われるのだ。
青年 判った、わかった。わたしもこれから強くなろう。年寄りや女子供を救うのは若い者の務めだ。
蟹 弱い奴の千人よりも、強い奴の方が頼もしいのだ。しっかり頼むぞ。
青年 よし。私はおまえの見る前で、神に誓おう。
(青年《わかもの》は投げ捨てたる弓を取り、ひざまずきて額にいただく。)
娘 わたしは命を助けられた恩がえしに、蟹のすがたを絵にかかせて、末代までも残るように、近所のお寺へ納めましょう。
翁 おお、いいところへ気がついた。蟹に救われた人間があるということを世間の人に知らせるために、蟹の姿を絵にかかせて、お寺に納めて置くがよかろう。
嫗 やがてそれがお寺の名になって、山城国《やましろのくに》に古蹟が一つ殖えるかも知れない。
蟹 そんなことはどうでもいい。用が済んだらおれは帰るぞ。
(蟹は長刀《なぎなた》をたずさえて悠々と奥に入る。翁と嫗と娘はそのうしろ姿を拝む。青年《わかもの》は腕をくみて考える。)
[#地から1字上げ]――幕――
[#地付き](「大正演芸」大正二年二月号掲載/大正九年六月、神戸中央劇場で初演)
底本:「伝奇ノ匣2 岡本綺堂妖術伝奇集」学研M文庫、学習研究社
2002(平成14)年3月29日初版発行
初出:「大正演芸」
1913(大正2)年2月号
入力:川山隆
校正:門田裕志
2008年12月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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