くは気にも留めずにともかくも漕ぎ戻すことにすると、美智子さんはなんだか物にでも憑《つ》かれたように、発作的に気でも狂ったように、いつまでも僕の手を強く掴んで放さないで『あれ又……。あれ、人魚が……。』と繰返して言う。なにしろ僕の手を掴んでいられては、櫂を漕ぐことができない。舟は一つところに漂っているばかりだ。さあ、その時……。僕も見た……。僕も見た。」
清は僕の腕をつかんで強く小突くのだ。ちょうど美智子が彼の手を掴んだように……。僕は小突かれながらも慌てて訊いた。
「君も見た……。なにを見たのだ。」
「月に光っている海の上に……。」と、清はその時のさまを思い出したように息をはずませた。「海の上に……。人の顔……人の顔が見えたのだ。浪のあいだから頭をあらわして……。」
「たしかに人の顔に見えたのか。」
「むむ。人の顔……。美智子さんのいう通りだ。」
「海亀だろう。」と、僕は言った。
海亀――いわゆる正覚坊《しょうがくぼう》には青と赤の二種がある。青い海亀はもっぱら小笠原島附近で捕獲されるが、日本海方面に棲息するのは赤海亀の種類だ。赤といっても赤褐色だが、時にはずいぶん巨大なのを発見す
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