ることがある。清の話を聴きながら、僕はすぐに赤海亀を思い出した。彼も美智子も一種の錯覚か妄覚にかかって、浪のあいだから首を出した大きい海亀を見あやまって、人の顔だとか人魚だとか騒いだのだろうと想像した。果して彼はうなずいた。
「むむ、海亀……。そう気がつくまでは、美智子さんばかりでなく、僕も人の顔だと思ったのだ。君だってその場にいたら、きっと人の顔……すなわち人魚があらわれたと思うに相違ないよ。美智子さんは人魚だ人魚だと言う。僕も一旦そう信じて、驚異の眼をみはって見つめていると、人の顔はやがて浪に沈んだかと思うと、また浮き出した。さあ、大変……。僕の驚異はにわかに恐怖に変ったのだ。多年ここらの海に出ているものでも、おそらく僕たちのような怖ろしい目に出逢ったものはあるまい。」
 彼は戦慄に堪えないように身をふるわせた。

     三

 今までは清も僕もしずかにあるきながら話して来たのだが、話がここまで進んで来ると、彼はもう歩かれなくなったらしい。路ばたに立ちどまって話しつづけた。
「君は海亀だろうと無雑作《むぞうさ》にいうが、その海亀がおそろしい。僕も一時の錯覚から眼が醒めて、人魚の正体は海亀であることを発見したが、美智子さんはやはり人魚だというのだ。まあそれはそれとして、僕に異常の恐怖をあたえたのは、その海亀が浪のあいだから最初は一匹、つづいて二匹、三匹……。五匹……。十匹……。だんだんに現われて来て、僕たちの舟を取囲んでしまったのだ。海はおだやかで、波はほとんど動かない。その渺茫《びょうぼう》たる海の上で、美智子さんと僕のふたりは海亀の群れに包囲されて、どうしていいかわからなくなった。
 一体かれらは僕たちの舟を囲んでどうするつもりかと見ていると、小さい海亀がまた続々あらわれて来て、僕たちの舟へ這いあがって来るのだ。平生ならば、小さな海亀などは別に問題にもならないのだが、美智子さんは無暗に怖がる、僕もなんだか不安に堪えられなくなって、手あたり次第にその亀を引っ掴んで、海のなかへ投げこんだ。ただ投げ込むばかりでなく、それを礫《つぶて》にして大きい奴にたたきつけて、一方の血路をひらこうと考えたのだ。それは相当に成功したらしいが、何をいうにも敵は大勢だ。小さい舟の右から左から、艫《とも》からも舳《みよし》からも、大小の海亀がぞろぞろ這いこんで来る。かれらは僕たちを啖《くら》うつもりだろうか。ここらの海亀は蝦や蟹を啖うが、人間を啖ったという話をきかない。しかしこんなに多数の海亀に襲われると、僕たちも危険を感ぜずにはいられなくなった。僕もしまいには闘い疲れてしまった。美智子さんはもう死んだようになっている。かれらはほとんど無数というほどに増加して、舟の周囲に一面の甲羅をならべたのが月の光りにかがやいて見える……。君がこういう奇異に遭遇したらどうするか。僕は疲労と恐怖で身動きも出来なくなった。」
 成程これは困ったに相違ないと、僕も同情した。同情を通り越して、僕もなんだが体の血が冷たくなったように感じられて来た。おそらく顔の色も幾分か変ったかも知れない。
「その場合、君にしても櫂を取って防ぐくらいの知恵しか出ないだろう。」と、清はあざわらうように言った。「そんな常識的な防禦法で、この怪物……人魚以上の怪物が撃退されると思うか。駄目だ、駄目だ。精神的にも肉体的にも戦闘能力を全然奪われてしまって、僕は敗軍の兵卒のようにただ茫然としているあいだに、無数の敵は四方から僕の舟に乗込んで来た。どういうふうに攀《よ》じのぼって来たのか、僕もよく知らないが、ともかくも続々乗込んで来たのだ。こうなると、誰にでも考えられることは海亀の重量だ。大きい海亀は何貫目の重量があるか、君も知っているだろう。それが無数に乗込んで来て、しかも一匹の甲羅の上に他の一匹が乗る、又その上に一匹が乗るという始末で、かさなりあって乗るのだから堪《たま》らない。大石を積んだ小舟とおなじように、僕たちの舟はだんだんに沈んで行くのほかはない。無益とは知りながら、僕は血の出るような声を振りしぼって救いを呼びつづけたが、なにぶんにも岸は遠い。僕が必死の叫び声も、いたずらに水にひびいて消えてゆくばかりだ。これが平生の夜ならば、沖に相当の漁船も出ているのだが、いかんせん今夜は例の迷信で、広い海に一艘の舟も見えない。浜の者どもは盆踊りで夢中になっているらしい。僕たちが必死に苦しみもがいているのを、黙って眺めているのは今夜の月と星ばかりだ。僕たちの無抵抗をあざけるように、敵はいよいよ乗込んで来る。舟は重くなる。舟舷《ふなべり》から潮水がだんだんに流れ込んで来る。最後の運命はもう判り切っているので、僕は観念の眼をとじて美智子さんを両手にしっかりと抱いた。子供の時からこの海岸に育った僕だ。これが僕
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