出ると、万兵衛は強情に追っかけてきて、漁師の舟さえ今夜は休んでいるんだから、遊びの舟なぞはなおさら遠慮しろというのだ。勿論、僕がそんなことを取合う筈もない。あたまから叱りつけて出ようとすると、美智子さんは女だから、万兵衛にむかって、すぐ帰って来るから安心してくれとなだめるように言い聞かせて、二人はまあ浜辺へ出たのだ。」
こう言いながら、清は路ばたに咲いている桔梗のひと枝を切り取った。どこやらでひぐらしの声がまたきこえた。
彼は薄むらさきの花をながめながら又話し出した。
「君も知っている通り、浜辺の砂地には僕の家《うち》の小舟が引揚げてある。それをおろして、僕は美智子さんと一緒に乗込んだ。今に始まったことじゃあないから、そんなことは詳しく説明するまでもあるまい。僕が櫂《かい》をとって海へ漕ぎだすと、今夜は空が晴れている。星がでる、月がでる。浪はおだやかで、風は涼しい。これまで美智子さんと幾たびか海へ出たが、こんなにいい晩は一度もなかった。二人は非常に愉快になって、舟舷《ふなばた》をたたきながら声をそろえて歌った。振り返ってみると、浜辺の町の灯は低く沈んで、水にひびく盆踊りの歌ごえも微かになって、自分たちの舟がもう余程遠く来ているのに気がついたが、それでも僕は頓着なしに漕いで行った。子供の時からここに育って、海には馴れているからね。そのうちに美智子さんはこんなことを言い出した。『一体、盂蘭盆の晩に舟を出しては悪いなんて、誰が言いはじめたんでしょうねえ。』僕はそれに答えて、前にいった通り『おそらく盂蘭盆の晩にはみんな内にいて、殺生の漁を休めというのでしょう。』と言うと、美智子さんは急に沈んだように溜息をついて『そんなことならようござんすけれど、番頭さんの言うとおり今夜海へ出るのは悪いんじゃないでしょうか。伝説だの、迷信だのといいますけれど、昔から悪いということは多年の経験から出ているんでしょうから……。』と、こう言うのだ。
ねえ、君。美智子さんは迷信家でもなければ、気の弱い人でもない、ふだんから理智的な、活溌な女性だ。それが禿あたまの番頭の口真似をするように、なんだか変なことを言い出したので、僕は少し不思議になった。今まで元気よく歌っていた人が急に溜息をついて憂鬱になって来たのだから、どうもおかしい。」
彼はこう言いかけて、自分も低い溜息をつきながら手に持っている桔梗の花を軽く投げ捨てた。
「それからどうしたね。」と、僕は催促するように訊いた。
「それから……。僕はこう言った。『多年の経験というけれども、多年のあいだには盂蘭盆の晩に海へ出て、一度や二度は偶然に何かの災難に遭った者がなかったとも限らない。その偶然の出来事を証拠にして、いつでもきっと有るように考えるのは間違いですよ。』――けれども、美智子さんは承知しないで、更にこんなことを言い出したんだ。『たとい偶然にしても、その偶然の出来事に今夜も出逢わないとは限りますまい。』――そういえばそんなものだが、なにしろ美智子さんがこんなことを言い出すのは、ふだんに似合わないことだ。しかし、いつまで議論をしても果てしがないから、僕はさからわずに舟を戻すことにした。
その時だ。櫂《かい》を把っている僕の手を美智子さんはしっかり掴んで『あれ、あれ……人魚が……人魚が。』と言う。なんだろうと思って見かえると、なんにも見えない。月は皎々《こうこう》と明るく、海の上は一面に光っている。それでも僕の眼にはなんにも見えないのだ。美智子さんはさっきから変なことばかり言うから、これも何かの幻覚か錯覚だろうと思って、深くは気にも留めずにともかくも漕ぎ戻すことにすると、美智子さんはなんだか物にでも憑《つ》かれたように、発作的に気でも狂ったように、いつまでも僕の手を強く掴んで放さないで『あれ又……。あれ、人魚が……。』と繰返して言う。なにしろ僕の手を掴んでいられては、櫂を漕ぐことができない。舟は一つところに漂っているばかりだ。さあ、その時……。僕も見た……。僕も見た。」
清は僕の腕をつかんで強く小突くのだ。ちょうど美智子が彼の手を掴んだように……。僕は小突かれながらも慌てて訊いた。
「君も見た……。なにを見たのだ。」
「月に光っている海の上に……。」と、清はその時のさまを思い出したように息をはずませた。「海の上に……。人の顔……人の顔が見えたのだ。浪のあいだから頭をあらわして……。」
「たしかに人の顔に見えたのか。」
「むむ。人の顔……。美智子さんのいう通りだ。」
「海亀だろう。」と、僕は言った。
海亀――いわゆる正覚坊《しょうがくぼう》には青と赤の二種がある。青い海亀はもっぱら小笠原島附近で捕獲されるが、日本海方面に棲息するのは赤海亀の種類だ。赤といっても赤褐色だが、時にはずいぶん巨大なのを発見す
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