一個であったらば、たとい岸が遠いにもしろ、この場合、運命を賭して泳ぐということもあるが、美智子さんを捨ててゆくことはできない。二人が抱き合ったままで、舟と共に沈もうと決心して……。これも一種の心中だと思って……。それからさきは夢うつつで……。」
「そうすると、結局は舟が沈んで……。君だけが助かって、妹は死んだというわけだね。」
「残念ながら事実はそうだ。」と、清は苦しそうな息をついた。「おそろしい悪夢からさめた時には、僕たちふたりは浜辺に引揚げられていた。あとで聞くと、僕たちの帰りの遅いのを心配して、番頭の万兵衛がまず騒ぎだして、捜索の舟を出してくれたので、海のなかに浮きつ沈みつ漂っている僕たちが救われたというわけだ。なんといっても僕は水ごころがあるから、たくさんの水を飲まなかったので容易に恢復したが、美智子さんはだめだった。いろいろ手を尽くしたが、どうしても息が出ないのだ。こんなことになるなら、僕もいっそ恢復しない方がましだったのだ。なまじい助けられたのが残念でならない。僕たちの小舟はあくる朝、遠い沖で発見されたが、海亀はどうしてしまったか一匹も見えなかったそうだ。」
「死んだものは、まあ仕方がないとして、君のからだはその後どうなのだ。もう出歩いてもいいのか。」と、僕は慰めるように訊いた。
「僕はその翌日寝ただけで、もう心配するようなことはない。美智子さんの葬式にもぜひ参列したいと思ったのだが、みんなに止められて拠《よ》んどころなく見合せたので、きょうは思い切って墓参りに出て来たのだ。幾度いっても同じことだが、僕は生きたのが幸か不幸かわからない。僕は昔からの迷信を裏書きするために、美智子さんを犠牲にしたようなものだ。」
彼の蒼白い頬には涙がながれていた。
「僕も迷信者になりたくない。それは美智子の言った通り、君たちが不幸にして偶然の出来事に出逢ったのだ。」と、僕はふたたび慰めるように言った。
この話はこれぎりだ。盂蘭盆の晩に舟を出すとか出さないとかいうのは、もちろん迷信に相違ないが、海亀の群れがなぜその舟を沈めに来たのか、それは判らない。かれらは時々に水を出て甲をほす習慣があるから、そんなつもりで舟へ這いあがったのかとも思われるが、正覚坊《しょうがくぼう》[#「正覚坊」は底本では「正坊覚」]に舟を沈められたというような話はかつて聞いたことがないと、土地の故老が言っていた。更にかんがえると、普通の亀ならば格別、海亀が船中に這い込んだというのは僕の腑に落ちかねるが、なにぶん現場を目撃したのでないから、ともかくも本人の直話を信用するのほかはなかった。
底本:「異妖の怪談集 岡本綺堂伝奇小説集 其ノ二」原書房
1999(平成11)年7月2日第1刷
初出:「日の出」
1934(昭和9)年8月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:網迫、土屋隆
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年6月26日作成
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