しゅったい》に驚き、一方には孝助の不注意を責め、又一方には孝助を愛しているという、三様の意味がはっきりと現われて、新五兵衛という老武士の風貌を躍如たらしめる所など、その息の巧さ、今も私の耳に残っている。団十郎もうまい、菊五郎も巧い。しかも俳優は其の人らしい扮装《つくり》をして、其の場らしい舞台に立って演じるのであるが、円朝は単に扇一本を以て、その情景をこれほどに活動させるのであるから、実に話術の妙を竭《つく》したものと云ってよい。名人は畏《おそ》るべきである。
 そこで考えられるのは、今日《こんにち》もし円朝のような人物が現存していたならば、寄席はどうなるかと云うことである。一般聴衆は名人円朝のために征服せられて、寄席は依然として旧時の状態を継続しているのであろうか。さすがの円朝も時勢には対抗し得ずして、寄席はやはり漫談や漫才の舞台となるであろうか。私はおそらく後者であろうかと推察する。円朝は円朝の出づべき時に出たのであって、円朝の出づべからざる時に円朝は出ない。たとい円朝が出ても、円朝としての技倆を発揮することを許されないで終わるであろう。
 田村|成義《なりよし》翁の「続々歌舞伎年
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