らしめ、さらに速記術というものを世間にひろく紹介することにもなったのである。
 私は「牡丹燈籠」の速記本を近所の人から借りて読んだ。その当時、わたしは十三、四歳であったが、一編の眼目とする牡丹燈籠の怪談の件《くだ》りを読んでも、さのみに怖いとも感じなかった。どうしてこの話がそんなに有名であるのかと、いささか不思議にも思う位であった。それから半年ほどの後、円朝が近所(麹町区山元町)の万長亭という寄席へ出て、かの「牡丹燈籠」を口演するというので、私はその怪談の夜を選んで聴きに行った。作り事のようであるが、恰もその夜は初秋の雨が昼間から降りつづいて、怪談を聴くには全くお誂え向きの宵であった。
「お前、怪談を聴きに行くのかえ。」と、母は嚇《おど》すように云った。
「なに、牡丹燈籠なんか怖くありませんよ。」
 速記の活版本で多寡をくくっていた私は、平気で威張って出て行った。ところが、いけない。円朝がいよいよ高坐にあらわれて、燭台の前でその怪談を話し始めると、私はだんだんに一種の妖気を感じて来た。満場の聴衆はみな息を嚥《の》んで聴きすましている。伴蔵とその女房の対話が進行するにしたがって、私の頸の
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