長丁場をツナギ続けたのは、確かにその話術の妙に因るのであった。
 私は円朝の若い時代を知らないが、江戸時代の彼は道具入りの芝居話を得意とし、赤い襦袢の袖などをひらつかせ[#「ひらつかせ」に傍点]て娘子供の人気を博し、かなりに気障《きざ》な芸人であったらしい。しかも明治以後の彼は芝居話を廃して人情話を専門とし、一般聴衆ばかりでなく、知識階級のあいだにも其の技倆を認めらるるに至ったのである。彼はその当時の寄席芸人に似合わず、文学絵画の素養あり、風采もよろしく、人物も温厚着実であるので、同業者間にも大《おお》師匠として尊敬されていた。
 明治十七、八年の頃とおぼえている。速記術というものが次第に行なわれるようになって、三遊亭円朝口演、若林|坩蔵《かんぞう》速記の「怪談牡丹燈籠」が発行された。後には種々の製本が出来たが、最初に現われたのは半紙十枚ぐらいを一冊の仮綴《かりとじ》にした活版本で、完結までには十冊以上を続刊したのであった。これが講談落語の速記本の嚆矢《こうし》であろうと思われるが、その当時には珍しいので非常に流行した。それが円朝の名声をいよいよ高からしめ、あわせて「牡丹燈籠」を有名な
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