助の立志譚を作るのではなくして、やはり「牡丹燈籠」式の怪談を作る積りであったと云う。怪談が変じて立志譚となったのは面白い。その経路は、こうである。
円朝は生涯に百怪談を作る計画があって、頻りに怪談の材料を蒐集していると、その親友の画家柴田|是真《ぜしん》翁から本所|相生町《あいおいちょう》二丁目の炭屋の怪談を聞かされた。それは二代目塩原多助の家にまつわる怪談で、二代目と三代目の主人が狂死を遂げ、さしもの大家《たいけ》もついに退転するという一件であった。
成程それは面白そうであるから、それを材料にして一編の怪談を組み立てようと云うことになったが、その当時、円朝はそれに就いて何の予備知識もなかった。塩原多助という人の名さえも知らなかった。そこで、まず相生町二丁目へ行って、土地の故老に塩原家のことを尋ねたが、何分にも年代を経ているので、一向にわからない。ようようのことで、塩原家の墓が浅草高原町の東陽寺にあることを探り出して、更にその寺へ尋ねてゆくと、墓は果たしてそこにあったが、寺でもやはり詳しいことは判らなかった。しかし住職と話している間に、円朝の眼についたのは、日本橋長谷川町の待合「梅の屋」の団扇《うちわ》が出ていることであった、そこで、梅の屋は檀家であるかと訊《き》くと、檀家というわけではないが、塩原家の墓については当寺に附け届けをする者は梅の屋だけであると、住職は答えた。梅の屋は円朝も識っているので、さらに梅の屋へ行って聞き合わせると、その老|女将《おかみ》は塩原家の縁者であったが、これも遠い昔の事はよく知らないと云う。しかも女将の口から、初代の多助は上州沼田在から江戸へ出て来た者であると云うことを聞き出したので、その翌日すぐに上州沼田へ向かった。明治九年八月二十九日である。
それから先きの紀行は「上野下野道の記」に詳しく書いてある。円朝は千住から竹の塚、越ヶ谷を経て、第一日の夜は大沢町の玉屋という宿屋に泊まった。この方面には汽車の開通しない時代であるから、道中は捗取《はかど》らない。その夜の宿は土地で有名の旧家であるが、紀行には「蚤と蚊にせめられて思ふやうに眠られず。」とある。翌三十日は粕壁、松戸を経て、幸手《さって》の駅《しゅく》に入り、釜林という宿屋に泊まる。まことに気の長い道中である。
この旅行に、円朝は弟子を伴わず、伝吉という車夫一人を供に連れて行ったので、道中はかなりに退屈したらしい。おまけに、今夜の宿もよろしくなかったらしく、紀行には「其夜は雨ふりて寝心も好からんと思ひのほかにて、蚤多く眠りかね、五時に起き出で、支度なしたり。」とある。行く先きざきで蚤や蚊に責められていたのは気の毒である。円朝は決して下等な宿屋に泊まったのではないが、毎晩この始末。むかしの旅の不自由が思いやられる。
三十一日は利根《とね》の渡《わたし》を越えて、中田の駅を過ぎる。紀行には「左右貸座敷軒をならべ、剥げちょろ白粉の丸ポチャちら/\見ゆる。」とあって、ここで「あだし野や馬に食はるゝ女郎花《おみなえし》」という俳句を作っている。一々紹介することは出来ないが、この紀行の詳細を極めているのは実に驚くべき程で、途中の神社仏閣、地理風俗、旅館、建場《たてば》茶屋、飲食店、諸種の見聞、諸物価など、ことごとく明細に記入してある。後日の参考に書き留めて置いたのであろうが、円朝ほどの落語家となれば、一編の人情話を創作するにも、これだけの準備をしている。彼が一代の名人と呼ばれたのも決して偶然でない。
その晩は真間田の駅で旧本陣の青木方に泊まる。紀行に「この宿は蚊帳も夜具も清らかにて、快く臥しぬ。」とあるから、円朝も今夜は助かったらしい。読んでいても、やれやれと安心する。九月一日、半田川を渡って飯塚の駅へ休み、それから小金井の駅へ出ようとする時、路に迷って難儀する。さんざん行き悩んだ末に二十町ほどの山を越えて、午後二時頃にようよう小金井の駅に辿り着いたが、眼がまわるほど空腹になったという。ここで飯を食って出ると、途中で夕立、雷鳴、その夜は石橋駅の旧本陣伊沢方に泊まり、町へ出て盆踊りを見物する。紀行に「昨年まで娼妓も踊に出でたるに、税金一夜に付き一人金二両二分を差出せとの布告ありしより、今年は懲り/″\して出る者無し。」とある。
二日は雀の宮を過ぎて宇都宮に着く。東京から五日間を費したわけである。ここでは午前十一時頃に手塚屋に泊まる。豊竹和国太夫がここに興行中であると聞いて、その宿屋をたずねると、和国太夫も悦んで迎えて、思いがけなき面会なりと、たがいに涙をながした。紀行には「実に朋友の信義は言の葉に述べ難きものなり。」とて、その当時の光景を叙してある。円朝が多感の人であったことは、これで察せられる。
あくる三日は宇都宮を立って、日光街道にかかる
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