に忘れられて、「牡丹燈籠」の芝居といえば、一般にこの歌舞伎座を初演と認めるようになってしまった。
 歌舞伎座初演の役割は、宮野辺源次郎(市川八百蔵、後の中車)萩原新三郎(尾上菊之助)飯島の娘お露(尾上栄三郎、後の梅幸)飯島平左衛門、山本志丈(尾上松助)飯島の妾お国、伴蔵の女房おみね(坂東秀調)若党孝助、根津の伴蔵、飯島の下女お米(尾上菊五郎)等で、これも殆んど原作の通りに脚色されていたが、孝助の役が原作では中間《ちゅうげん》になっているのを、中間では余りに安っぽいと云うので若党に改めた。若党までも使う屋敷で、用人その他の見えないのは如何《いかん》という批評もあったが、これは原作にも無理があるのだから致し方がない。単に旗本というばかりで身分を明かさず、大身《たいしん》かと思えば小身のようでもあり、話の都合で曖昧《あいまい》に拵えてある。桜痴居士らも無論にそれを承知していた筈であるが、これも芝居として先ず都合の好いように拵えて置いたのであろう。
 舞台の成績が春木座の比でないことは云うまでもない。配役も適材適所である。八百蔵はむしろ平左衛門に廻るべきであったが、配役の都合で源次郎に廻ったので、旗本の次男の道楽者という柄には嵌《はま》らなかったが、同優はそのころ売り出し盛りであったので、さのみの不評をも蒙らずに終わった。松助の平左衛門もどうかと危ぶまれたのであるが、これは案外に人品もよろしく、旗本の殿様らしく見えたという好評であった。
 この時、わたしの感心したのは、菊五郎の伴蔵が秀調の女房にむかって、牡丹燈籠の幽霊の話をする件りが、円朝の高坐とは又違った味で一種の凄気を感じさせた事であった。高坐の芸、舞台の芸、それぞれに違った味を持っていながら、その妙所に到ればおのずから共通の点がある。名人同士はこういうものかと、私は今更のように発明した。秀調は先代で、女形としては容貌《きりょう》も悪く、調子も悪かったが、こういう役は不思議に巧かった。
 春木座の時にもこの狂言にちなんだ牡丹燈籠をかけたが、それは劇場の近傍と木戸前だけにとどまっていた。歌舞伎座の時には其の時代にめずらしい大宣伝を試みて、劇場附近は勿論、東京市中の各氷屋に燈籠をかけさせた。牡丹の造花を添えた鼠色の大きい盆燈籠で、その垂れに歌舞伎座、牡丹燈籠などと記《しる》してあった。盆興行であるので、十五と十六の両日は藪入りの観客に牡丹燈籠を画いた団扇を配った。同月二十三日の川開きには、牡丹燈籠二千個を大川に流した。こうした宣伝が効を奏して、この興行は大好評の大入りを占め、芝居を観ると観ざるとを問わず、東京市中に牡丹燈籠の名が喧伝された。今日ではどんなに大入りの芝居があっても、これ程の大評判にはなり得ない。
 その原因をかんがえるに、第一は社会がその当時よりも多忙で複雑になった為であろう。第二は東京が広くなった為であろう。第三は各劇場の興行回数が多くなった為であろう。この「牡丹燈籠」を上演した明治二十五年の歌舞伎座は、一月、三月、五月、七月、九月、十月の六回興行に過ぎなかった。今日では一年十二回の興行である。たとえば黙阿弥作の「十六夜清心《いざよいせいしん》」や「弁天小僧」のたぐい、江戸時代には唯一回しか上演されないにも拘らず、明治以後に至るまでその名は世間に知られていた。今日では、去年の狂言も今年は大抵忘れられてしまうのである。毎月休みなしの興行にあわただしく追い立てられて、観客の鑑賞力も記憶力も麻痺してしまうのであろう。
 劇場側ばかりでなく、世態もまた著しく変わった。明治時代、前記の「牡丹燈籠」上演の頃までは、市中の氷屋、湯屋、理髪店などのように諸人の集まる場所では、芝居の噂がよく出たものである。その噂をする客が多いために、湯屋の亭主や理髪店の親方も商売の都合上、新聞の演芸記事や世間の評判に注意していて、客を相手に芝居話などを流行らせたものである。したがって「湯屋髪結床の噂」なるものが、芝居の興行成績にも直接間接の影響をも及ぼしたのであるが、現今は殆んどそんなことは無い。湯屋や理髪店で野球や映画や相撲の噂をする客はあっても、芝居の噂をする客は極めて少ない。その相手になる亭主や親方も、自分が特に芝居好きでない限りは、芝居の話などをする者はない。
 紐育《ニューヨーク》や倫敦《ロンドン》で理髪店へゆくと、こっちが日本人で世間話の種が無いせいでもあろうが、芝居を観たかと必ず訊かれる。外国では「湯屋髪結床の噂」がやはり流行するらしい。巴里《パリ》にはバジン・テアトル(芝居風呂)などと洒落た名前を付けた湯屋もある。

     三 円朝の旅日記

 次は「塩原多助一代記」である。これも円朝の作として有名なものであるが、この作の由来について円朝自身が語るところに拠ると、彼が最初の考案は多
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