代記」には、どう云うわけか、明治二十年度に於ける春木座の記事を全部省略してあるが、私の記憶によれば、かの「牡丹燈籠」が初めて劇化されたのは、春木座の明治二十年八月興行であったと思う。春木座は本郷座の前身である。狂言は、「怪談牡丹燈籠」の通しで中幕の「鎌倉三代記」に市川九蔵(後の団蔵)が出勤して佐々木高綱を勤めていたが、他は俗に鳥熊の芝居という大阪俳優の一座で、その役割は萩原新三郎(中村竹三郎)飯島の娘お露(大谷友吉)飯島の下女お米、宮野辺源次郎(中村芝鶴)飯島平左衛門(嵐鱗昇)飯島の妾お国(市川福之丞)飯島の中間孝助、山本志丈(中村駒之助)伴蔵(市川駒三郎)伴蔵女房おみね(中村梅太郎)等であった。さらに註すれば、右の中村芝鶴は後の伝九郎で、現在の芝鶴の父である。市川福之丞は後の門之助で、男女蔵の父である。市川駒三郎は後に団十郎の門に入って、宗三郎と改名した。中村梅太郎は後の富十郎で、現在の市川団右衛門の父である。この通し狂言の脚色者は何人《なんぴと》であるかを知らなかったが、後に聞けばそれは座付の佐橋五湖という上方作者の筆に成ったのであった。
その当時、私は十六歳、八月は学校の暑中休みであるから、初日を待ちかねて春木座を見物した。一日の午前四時、前夜から買い込んで置いた食パンをかかえて私は麹町の家を出た。
二 舞台の牡丹燈籠
その当時、春木座で興行をつづけていた鳥熊の芝居のことは、かつて他にも書いたので、ここでは詳しく説明しないが、なにしろ団十郎も出勤した大劇場が桟敷と高土間と平土間の三分ぐらいを除いては、他はことごとく大入り場として開放したのである。木戸銭は六銭、しかも午前七時までの入場者には半札をくれる。その半札を持参すれば、来月の芝居は半額の三銭で見られる。われわれのような貧乏書生に取っては、まことに有難いわけであった。
芝居は午前八時から開演するのであるが、そういうわけであるから木戸前は夜の明けないうちから大混雑、観客はぎっしり詰め掛けている。どうしても午前五時頃までに行き着いていなければ、好い場所へは這入られない。私などは大抵四時頃から麹町の家を出るのを例としていた。夏は、好いが、冬は少しく難儀であった。お茶の水の堤に暁の霜白く、どこかで狐が啼いている。今から考えると、まったく嘘のようである。
しかしこの「牡丹燈籠」の時は、八月初めの暑中であるから、大いに威勢が好い。いわゆる朝涼《あさすず》に乗じて、朴歯《ほおば》の下駄をからから踏み鳴らしながら行った。十六歳の少年、懐中の蟇口には三十銭くらいしか持っていないのであるから、泥坊などは一向に恐れなかったが、暗い途中で犬に取り巻かれるのに困った。今日のように野犬撲殺が励行されていないので、寂しい所には野犬の群れが横行する。春木座へ行く時には、私は必ず竹切れか木の枝を持って出た。武器携帯で芝居見物に出るなどは、おそらく現代人の思い及ばないところであろう。この朝も途中で二、三度、野犬と闘ったことを記憶している。
余談は措《お》いて、さてその芝居の話であるが、春木座の「牡丹燈籠」は面白かった。ほとんど原作の通りで、序幕には飯島平左衛門が黒川孝助の父を斬る件りを丁寧に見せていた。この発端を見せる方が、一般の観客には狂言の筋がよく判る。燈籠の件りも悪くはなかったが、円朝の高坐で聴いたような凄味は感じられなかった。やはり円朝は巧いと、ここでも更に感心させられた。一座が上方俳優であるから、こうした江戸の世界の世話狂言には、台詞《せりふ》がねばって聴き苦しいのは已むを得ない欠点で、駒三郎と梅太郎の伴蔵夫婦などは最も困った。中幕の「三代記」は駒之助の三浦、梅太郎の時姫、九蔵の佐々木であったが、この中幕よりも通し狂言の「牡丹燈籠」の方が大体に於いて面白かった。
私は先月の半札を持参したから、木戸銭は三銭。弁当は携帯の食パン二銭、帰途に水道橋ぎわの氷屋で氷水一杯一銭。あわせて六銭の費用で、午前八時から午後五時頃まで一日の芝居を見物したのである。金の値に古今の差はあるが、それにしても廉《やす》いものであったと思う。
その後、どこかの小芝居で「牡丹燈籠」上演をしたかどうだか知らないが、大劇場で上演したのは春木座の鳥熊芝居から五年の後、すなわち明治二十五年七月の歌舞伎座である。歌舞伎座では其の年の正月興行に、やはり円朝物の「塩原多助一代記」を菊五郎が上演して、非常の大入りを取ったので、その盆興行にかさねて円朝物の「牡丹燈籠」を出すことになったのである。脚色者は福地桜痴居士であったが、居士はこうした世話狂言を得意としないので、さらに三代目河竹新七と竹柴|其水《きすい》とが補筆して一日の通し狂言に作りあげた。初演の年月から云えば、春木座の方が五年の前であるが、それは已《すで》
前へ
次へ
全14ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング