。上戸祭村で小休みをすると、「わが作話の牡丹燈籠の仇討に用ひた十郎ヶ峰はここから西北に見える。」とあるから、牡丹燈籠はこの以前の作であることが判る。今市駅の櫛田屋に休むと、同業三升屋勝次郎の忰に出逢った。これは和国太夫と違って、長の旅中困難の体《てい》に見受けたので、幾らか恵んで別れて出ると、途中で大雨、大雷、ずぶ濡れになって日光の野口屋に着いた。四日は好天気で、日光見物である。これは例の筆法で詳細に記入、ほとんど一種の日光案内記の体裁をなしている。その夜は野口屋に戻って一泊。五日は登山して、湯元温泉の吉見屋に泊まる。日光の奥で夜は寒く、「行燈にわびし夜寒の蠅ひとつ」の句がある。
六日の朝はいよいよ沼田へ下《くだ》ることになって、山越えの案内者をたのむと、宿の主人が大音で「磯之丞、磯之丞」と呼ぶ。紀行には「山道の案内者は強壮の人こそよけれ、磯之丞とは媚《なま》めきたる弱々しき人ならんと心配してゐる折からに、表の方より入り来る男は、年ごろ四十一二歳にて、背は五尺四五寸、頬ひげ黒く延び、筋骨太く、見上ぐるほどの大男、身には木綿縞の袷に、小倉の幅せまき帯をむすび、腰に狐の皮の袋(中に鉄砲の小道具入り)をさげ、客の荷物を負ふ連尺《れんじゃく》を細帯にて手軽に付け、鉈作りの刀をさし、手造りのわらじを端折り高くあらはしたる毛脛の甲まで巻き付けたる有様は、磯之丞とは思はれぬ人物なり。」とある。磯之丞という名を聞いて不安心に思っていると、熊のような大男が現われたので、大いに安心したというのも面白い。殊にその磯之丞の人品や服装について、精細の描写をしているのを見ても、円朝の観察眼に敬服せざるを得ない。この磯之丞はよほど円朝の気に入ったと見えて、塩原多助の話の中にもそのまま取り入れてある。
この山越しは頗る難儀であったばかりでなく、かの磯之丞の話によると、熊が出る、猪が出る。殊にうわばみが出るというので、供の伝吉はおどろき恐れて中途から引き返そうと云い出したが、円朝は勇気を励まして進んだ。紀行には「何業も命がけなりと胸を据ゑ」とある。わが職業については一身を賭《と》する覚悟である。この紀行の一編、読めば読むほど敬服させられる点が多い。
小川村という所まで行き着かず、途中の温泉宿に泊まる。ここにも山の湯の宿屋の光景について精細の描写がある。温泉は河原の野天風呂で、蛇が這い込んで温まっているのを発見して、驚いて飛びあがる。その夜は相宿の人々と炉を囲んで、見るもの聞くもの一々日記帳に書き留めるので、警察の探索方と誤られて、非常に丁寧に取り扱われたなどという※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]話がある。
七日の朝は磯之丞に別れて、村を過ぎ、山を越え、九里の道を徒歩して、目的地の沼田の町に行き着いた。宿は大竹屋。早速に主人を呼んで、塩原多助の本家はどこにあるかと尋ねると、原町という所に塩原という油屋があるから、ともかくも明日呼び寄せますと云う。明くる八日の朝、宿の女房が原町の塩原金右衛門という人を案内して来た。年の頃は六十二、三で、人品賤しからず、ひどく丁寧に挨拶されて円朝も困った。紀行には「わたくしは東京長谷川町梅の屋の親類の者なり。少しお尋ね申したき事ありと、先づ日記の手帳を膝元に置き、初代多助の出生の跡は依然として在りやなど、さま/″\深く問ひけるに、その老人いぶかしく思ひしか、恐る/\申すやうは、先代塩原の家は当所より北の方(三里余)へ隔たりし下新田村と申すなりと、こま/″\と物語り、わたくしは初代の甥にあたる金右衛門と申す者の家にて、下新田を出でて当今は当駅の原町にて油屋を業としてゐると聞き、あら/\事情も解りしが、云々《うんぬん》。」とある。
それから出発して、その夜は前橋駅の白井屋に一泊。九日には同駅の紺屋町に料理屋を営んでいる妹お藤をたずね、兄妹《きょうだい》久々の対面があって、ここでも円朝は泣かされている。その夜はここに一泊して、十日の早朝から帰途に就く。例の筆法で帰途の日記も詳しく書いてあるが、その日は太田の駅に着いて、呑竜《どんりゅう》上人の新田寺に参詣、はせを屋に一泊。十一日は足利に着いて、原田与左衛門方に一泊。十二日は猿田|川岸《がし》から舟に乗って栗橋に着き、さらに堺川岸から舟を乗り換えて、その夜は舟泊まりとなる。蚊の多いのに困ったとある。十三日は流山、野田を過ぎて、東京深川の扇橋に着く。八月二十九日から十六日間の旅行である。
梅の屋の女将の話を聞いて、翌日すぐに出発は頗る性急のようでもあるが、その当時の習いとして、八月中は劇場、寄席、その他の興行物がすべて夏休みである。九月もまだ残暑が強いので、円朝などのような好い芸人は上半月を休むのが普通であった。その休業の時間を利用して、この
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