通って来るのであるから、よほど面白くないと毎晩つづけて来ることは無い。そこに多大の苦心が潜んでいるわけである。円朝をして今の世に在らしめば、その創意、その文才、いわゆる大衆作家としても相当の地位を占め得たと思う。
 この旅行は、彼が三十八歳の秋であった。

     四 塩原多助その他

 円朝の「塩原多助」を初めて舞台に上《の》せたのも、かの「牡丹燈籠」と同様、やはり春木座であった。その狂言名題は「塩原多助経済鑑」というのであったが、私はその芝居を観なかったので詳しいことを知らない。いずれにしても「牡丹燈籠」と「塩原多助」を上演したのは春木座が初めで、歌舞伎座は後である。
 歌舞伎座で初めて「塩原多助」を上演したのは、明治二十五年の一月興行で、名題は原作通りの「塩原多助一代記」、その主なる役割は原丹次、塩原角左衛門(八百蔵、後の中車)角左衛門の妻おせい、塩原の後家おかめ(秀調)原丹三郎(菊之助)娘お栄(栄三郎)又旅お角、明樽買久八(松助)塩原多助、道連小平(菊五郎)であった。円朝の原作では多助と小平が顔を合わせる件りがしばしばあるが、菊五郎がその二役を兼ねる都合から、舞台の上では両者の出会う場面を作ることが出来ず、小平の活動する件りは殆んど省略された。それが少しく遺憾であったが、役々いずれも好評、取り分けて例の「馬の別れ」が大好評で、この以来、塩原多助といえば直ぐに「馬の別れ」を思い出すほどに有名なものになってしまった。
 その時に、いわゆる劇通連のあいだには、菊五郎の芝居よりも円朝の話の方がやはり面白いという評があった。高坐の上では、あらゆる人物をことごとく円朝が話すのであるが、舞台の上では、あらゆる人物を菊五郎が勤めるわけには行かない。大抵は菊五郎以下の俳優が勤めるのであるから、興味はそれだけ減殺される結果に陥るというのである。しかも一般の観客はそんなことに無頓着で、この興行は大入り大当たりであった。原作者の円朝も頗る得意で、その一門の三遊派落語家数十名を率いて見物した。
 ついでに記《しる》すが、この時の中幕は「箱根山曾我初夢」で、工藤祐経が箱根権現に参詣し、その別当所で五郎の箱王丸に出会い、例の対面になるという筋であったが、その道具が居所替《いどころがわ》りで信州軽井沢の八幡屋という女郎屋になり、屏風のなかに一番目の道連れ小平が寝ている。祐経と小平は菊五郎
前へ 次へ
全28ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング