旅行を企てたものと察せられる。この地方にはすべて汽車がないので、人力車又は舟の便を仮るのほかなく、大抵は徒歩であったから、旅馴れない円朝は定めて疲れたことであったろう。
こういうわけで、最初は塩原家二代目三代目の怪談を作る予定が中途から変更して、初代の立志譚となったのである。その変更の理由は別に説明されていないが、おそらく梅の屋の女将の談話から何かのヒントを得た上に、更に沼田へ行って塩原家の遺族から昔話を聞かされ、却って初代の伝記に興味を感じるようになったのであろう。初代の塩原多助が江戸へ出て、粉炭《こなずみ》を七文か九文の計り売りして、それで大きい身代《しんだい》を作りあげたのは事実で、現にその墓は浅草高原町の東陽寺内に存在したのであるが、詳細の伝記は判然《はっきり》していないらしく、かの「塩原多助一代記」は殆んど円朝の創作で、大体は大岡政談の「越後善吉」を粉本にしたものであると云う。私も大方そうであろうと察している。
果たして然らば、かの有名な「馬の別れ」のくだりなどは、なかなかよく出来ていると思う。勿論、これにも黙阿弥作の「斎藤内蔵之助の馬の別れ」という粉本が無いでもないが、多助の方が情味に富んで、聴衆を泣かせるように出来ている。わたしは運わるく、円朝の高坐で「馬の別れ」を聴かなかった。私の聴いたのは、お角婆の庵室へ原丹次とおかめの夫婦が泊まり合わせる件りであった。
それについて思われるのは、円朝は人物の名を付けることが巧いことである。又旅のお角などは先ず普通であるが、その子が胡麻の灰で道連れ小平、その同類が継立《つぎたて》の仁助などは、いずれも好く出来ている。落語でも芝居でも、人名などは一種の符牒に過ぎないように思われるが、決してそうで無い。道連れの小平などという名を聞けば、いかにもそれが道中の胡麻の灰で、忌な眼を光らせて往来の旅人を窺っているらしく連想される。こういう点にも、円朝は相当の苦心を払っていたらしい。
たとい越後善吉があるにしても、斎藤内蔵之助があるにしても、それだけの粉本では十五席の長い人情話は出来あがらない。一席ごとに皆それぞれの山を作って、昨晩の聴衆を今晩へ、今晩の聴衆を明晩へと引き摺って行かなければならない。その点は新聞の続き物と同様であるが、新聞は忌《いや》でも応でも毎日配達されて毎日読まされる。寄席の聴衆は自宅から毎晩わざわざ
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