の早替りである。そこへ栄三郎の女郎おあさが出て来ると、小平はそれを相手にして曾我に因《ちな》んだ口上茶番のようなことを云う。勿論、「塩原多助」の本筋には何の関係もないのであるが、こういう一種の趣向がその当時の観客に喜ばれた。この狂言も中幕も三代目河竹新七の作である。三代目の新七は二代目(黙阿弥)に及ばなかったが、さすがはその高弟だけに、師匠の作風をよく学んでいた。
「塩原多助」が大当たりを取ったので、その盆狂言には「牡丹燈籠」を上演することになったのである。それも好評であったことは前に云った。座方も俳優もそれに味を占めて、翌二十六年一月の歌舞伎座では「安政三組盃」を上演した。これは松林《しょうりん》伯円の講談に拠ったもので、人情話の好評から更に講談物の脚色に及んだのである。今日、映画の劇化が行なわれるように、その頃は寄席の読み物の劇化が行なわれる時代であった。
 この講談は町奉行所の与力《よりき》鈴木藤吉郎を主人公として、それに上野の寺侍杉田|大内蔵《おおくら》と柳橋の芸妓小染を配したもので、「三組盃」の題名はこの三人を意味するのであった。菊五郎は藤吉郎と馬丁幸吉の二タ役をつとめ、家橘(羽左衛門の父)が大内蔵、福助(歌右衛門)が小染を勤め、これも役々の評判がよかった。取り分けて菊五郎は主人公の藤吉郎よりも、二タ役の馬丁幸吉の方が好評で、五幕目小村井梅屋敷の場で主人の跡部甲斐守(松助)に嚇されたり賺《すか》されたりして、藤吉郎の秘密を口外する件りは、松助の跡部と共に大当たりであった。但しこの狂言も春木座が先きで、歌舞伎座はあとである。
「三組盃」の作者はやはり三代目新七であったが、大切《おおぎり》の浄瑠璃に「奴凧」が上演された。この浄瑠璃が黙阿弥の絶筆である。菊五郎が奴凧を勤めるに就いて、座方では去年の「牡丹燈籠」以上の宣伝法を案出し、一月六、七日の両日、浅草の凌雲閣、新橋の江木の塔、芝愛宕山の愛宕館の三カ所から歌舞伎座の印を捺した奴凧数百枚を放ち、それを拾って来たものには無料《ただ》で見物をさせることにした。
「塩原多助」が当たり、次いで「牡丹燈籠」が当たり、更に「三組盃」が当たったので、盆と正月には寄席の読み物に限るという風になって、その七月の歌舞伎座では、又もや円朝の安中草三《あんなかそうざ》を上演することになった。作者は三代目新七、名題は「榛名梅香団扇画《はる
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