十右衛 飲むというほどでもございません、まあ一合上戸ぐらいのことでございます。
半七 お飲みなされば丁度いい。生憎《あいにく》かかあがいねえので、碌なお肴もありませんが、まあ一杯飲んでから出かけることに致しましょう。(台所に向いて。)おい、亀。
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(台所より亀吉いず。)
[#ここで字下げ終わり]
半七 肴はなんでもいいから早く酒の支度をさせてくれ。
亀吉 あい、あい。(引っ返して去る。)
十右衛 どうぞお構いくださいますな。わたくしはもうお暇《いとま》をいたします。(起ちかかる。)どうもお邪魔をいたしました。
半七 ああもし、おまえさんはこれから和泉屋へ行きなさるんでしょうね。
十右衛 え。
半七 先廻りをしていかれちゃ困る。ここでわたしと一杯飲んで、どうぞ一緒に行ってください。
十右衛 (迷惑そうに。)はい。
半七 わたしもたんといける口じゃあねえ。やっぱり一合上戸のお仲間ですが、きょうは少し飲みましょうよ。顔でも紅《あか》くしていねえと景気が附きませんや。(笑う。)
十右衛 はい。
半七 旦那もまあお飲みなさい。よたん坊が二人連れで威勢よく和泉屋へ乗込もうじゃありませんか。
十右衛 (いよいよ困った顔をして。)はい。
半七 (台所に向いて。)おい、おい。なにをしているんだ。早くしねえか。
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(亀吉は徳利を持ち、おみのは膳を運びていず。)
[#ここで字下げ終わり]
亀吉 馬鹿に急ぐんだね。
半七 ゆっくりしちゃあいられねえ。立場《たてば》だ、立場だ。
亀吉 まだ燗は本当に出来ねえぜ。
半七 冷《ひや》でもいいから早く持って来い。
亀吉 あい、あい。
半七 どれ、今のうちに衣裳を着かえて置こうか。(起つ。)旦那、かまわずに一杯やっていて下さい。亀、お相手をしろ。
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(云いすてて半七は奥に入る。十右衛門はなんだか落着かないような顔をして、あとを眺めている。)
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]――幕――

 第三幕

  (一)

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 京橋具足町の金物屋《かなものや》、和泉屋の店さき。間口の広い大店《おおだな》にて、店さきの土間にも店の左右の地面にも、金物類が沢山に積んである。上のかたには土蔵の白壁がみえて、鉄の大きい天水桶もある。軒には和泉屋と染めた紺暖簾がかかっている。下のかたには町家がつづいて見える。
[#ここで字下げ終わり]

(第二幕とおなじ日の午頃。店の帳場には四十歳以上の大番頭伝兵衛が帳面を繰っている。ほかに番頭弥助、三十二三歳。おなじく和吉、二十四五歳。いずれも帳面をならべて十露盤《そろばん》をはじいている。若い者庄八と長次郎は尻を端折って店さきに出で、小僧三人に指図して、五徳や火箸のたぐいを縄でくくらせている。)
庄八 さあ、さあ、早くしろ。
長次郎 午飯《ひるめし》までに片附けてしまわなければならないのだ。
小僧一 これをみんな土蔵のなかへ運び込むんですかえ。
庄八 おなじことを幾度も聞くな。長どんのいう通り、これを片附けてしまわないうちは、誰にも午飯を食わせないぞ。
小僧二 この火箸は馬鹿に重いんですね。
長次郎 鉄で出来ているから重いのは当りまえだ。苧殻《おがら》の箸じゃあねえ。その積りでしっかり持て。
小僧三 餓鬼に苧殻ならいいが、餓鬼に鉄棒《かなぼう》を持たせるのだから遣り切れねえ。
庄八 生意気なことをいうな。ぐずぐずしていると、なぐり付けるぞ。
小僧一 やれ、やれ、きょうは朝からお小言の続け玉だ。
小僧二 定九郎なら二つ玉だが、つづけ玉じゃあ全くやりきれねえ。
小僧三 定九郎ならまだしもだが、勘平と来た日にゃあ大変だ。
長次郎 (叱る。)これ、大きな声でそんなことを云うな。
庄八 大旦那やおかみさんにきこえたら、それこそ大変だぞ。
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(小僧共も首を縮めて口をおさえる。)
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長次郎 さあ、早くしろ、早くしろ。
庄八 四五日商売を休んだので、みんな怠け癖が附いてしまやあがった。
小僧 (声をそろえて。)さあ、さあ、早くしろ。
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(庄八と長次郎も手伝いて、小僧共は金物類を上のかたへ重そうに運んでゆく。)
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伝兵衛 (あとを見送って舌打ちする。)小僧どもは碌なことを云わない。定九郎だの勘平だのと、そんな噂は禁物だ。
弥助 大旦那やおかみさんはもう忠臣蔵の芝居は一生見ないと云っておいでですよ。
伝兵衛 まったくお察し申すよ。わたしももう忠臣蔵は見たくない、あの晩のことを思い出すと、今でもぞっとするようだ。小僧共ばか
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