うんですね。
十右衛 (云い淀んで。)それがどうも困りますので……。そんな悪い噂がそれからそれへと拡まりますと、妹がまったく可哀そうでございます。
半七 (やはり素知らぬ顔で。)それじゃあ今度のことに、和泉屋のおかみさんが何か係り合いがあるとでも云うんですかえ。
十右衛 まあ、まあ、そんなわけでございます。兄の口から斯う申すも如何《いかが》でございますが、あれは正直おとなしい女で、角太郎を生みの子供のように大切にして居りましたのに、それを何か世間にありふれた継母《ままはは》根性のようにでも思われますのは如何にも残念でございまして……。ともかくも葬式は昨日《さくじつ》で済みましたから、これから何とかして当夜の間違いの起った筋道を詮議いたしたいと存じて居るのでございます。その筋道がよく判りませんで、妹が何かの濡衣《ぬれぎぬ》でも着るようでございますと、妹は気の小さい女でございますから、あんまり心配して気ちがいにでもなり兼ねません。それが不便《ふびん》でございまして……。(鼻紙を出して眼をふく。)どうか親分さんのお力で、一体どうして角太郎の大小が本身の品と取り変ったのか、それをよく詮議して頂きたいと存じまして、こうしてお願いに出たのでございます。
半七 舞台で使う銀紙の刀がどうして本身に変ったのか、わたくしもその晩すぐに楽屋へ踏み込んで調べてみたが、さっぱり見当が付かないので困ってしまいました。損料屋も色々に詮議しましたが、まったく何んにも知らないらしいし、町人衆ばかりが寄り集まっているところに、ほん物の大小が置いてあろう筈もなし、どうして取り違ったのか……。(云いかけて考える。)それに就いてわたくしもちっと考えていることもあるんですが……。
十右衛 (乗り出す。)お心当りがございますか。
半七 さあ。そこで大和屋の旦那。妙なことを伺うようですが、若旦那は芝居のほかに何か道楽がありましたかえ。
十右衛 素人芝居の役者になるほどでございますから、お芝居は勿論大好きでございましたが、そのほかに碁将棋のたぐいの勝負事は嫌い、酒も嫌い、若い者としてはまず道楽の少ない方で、女道楽の噂などもついぞ聞いたことはございませんでした。
半七 お嫁さんの噂もまだ無かったんですね。
十右衛 (やや迷惑そうに。)それは内々決まって居りましたので……。
半七 きまっていましたか。
十右衛 はい。こうなれば何もかも申上げますが、実は和泉屋の仲ばたらきのお冬という女に手をつけまして……。尤もその女は気立ても悪くないものですから、いっそ世間に知れないうちに相当の仮親をこしらえて、嫁の披露をしてしまった方がいいかも知れないなどと、親たちも内々相談して居りましたのですが、思いも付かないこんな事になってしまいまして、つまり両方の運が悪いのでございます。
半七 そのお冬というのは、年は幾つで、どこの者ですね。
十右衛 あけて十八になりまして、品川の者でございます。
半七 若旦那と色になるようじゃあ、定めて容貌《きりょう》もいいんでしょうね。
十右衛 容貌はまず十人並以上で、和泉屋の嫁に致しても恥かしくはないかと、わたくし共も存じて居りました。
半七 (うなずく。)いや、わかりました。(ひとり言のように。)やっぱりあの女か。
十右衛 お冬を御存じでございますか。
半七 あの騒ぎのときに楽屋でちらりと見かけたのが多分そのお冬という女でしょう。若旦那のそばへ行って無暗に泣いているのがちっとおかしいと思いました。いや、まだほかにもおかしい奴がありましたが、成程そんなわけがあったのですか。(かんがえて。)まあ、ようございます。それじゃあ、旦那。これからわたくしは具足町のお店へ出かけましょう。
十右衛 すぐにお出かけ下さいますか。
半七 下手の考え休むに似たりとか云いますから、思い立ったらすぐに取りかかって、なんとか早く埒をあけてしまいましょうよ。ぐずぐずしていると色々の面倒が起りますからね。
十右衛 では、もうお見込みが付きましたか。
半七 さあ。(笑って。)まだどうなるか判りませんが、あらましの段取りは附いたようです。
十右衛 (やや不安らしく。)そこで、そのお見込みはどういうことに決まりましたのでございましょうか。
半七 それは聞かないでください。この芝居も幕をあけてみなければどうなるか判らねえ。下手にやり損じると、今度は半七が腹を切らなければなりませんからね。
十右衛 でも、わたくしだけには御内々で……。決して他言いたしませんから。
半七 地獄極楽の区ぎり目の付くまでは、素人衆はまあ黙って見ておいでなさい。
十右衛 はい。(よんどころなく黙っている。)
半七 (かんがえる。)いや、そうでもねえ。おまえさんは味方に抱き込んで置く方が都合がいいかな。時に旦那はお酒をあがりますかえ
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