跡方のねえことでもねえらしいね。兎も角ももう少し手繰ってみちゃあどうです。
半七 むむ。
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(半七はやはり考えている。向うより大和屋十右衛門、四十五六歳、相当の町家の主人の風俗にて出で来たり、内をうかがいて丁寧に案内する。)
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十右衛 御免ください。
亀吉 あい、あい。(出る。)どなたですえ。
十右衛 三河町の半七親分のお宅はこちらでございましょうか。
亀吉 そうですよ。どこからお出でなすった。
十右衛 わたくしは芝の露月|町《ちょう》で金物渡世をいたして居ります大和屋十右衛門と申す者で、親分さんにお目にかかりまして、少々おねがい申したいことがございますが、お宅においででございましょうか。
亀吉 ちょいと待っておくんなさい。(引っ返して来る。)親分。
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(半七は黙って考えている。)
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亀吉 おい、親分。ぼんやりしていちゃあいけねえ。お客ですよ。
半七 (気がついて振向く。)そうぞうしいな。誰が来た。
亀吉 露月町の金物屋で大和屋十右衛門という人だそうです。
半七 なにしろこっちへ通すがいい。
亀吉 (入口へ来て。)さあ、どうぞ。
十右衛 ごめん下さい。
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(十右衛門は丁寧に会釈して内に入る。亀吉は手あぶり火鉢を出し、茶の支度をする心で台所に入る。)
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半七 わたくしが半七でございます。
十右衛 手前は大和屋十右衛門、どうぞ御見識り置きをねがいます。
半七 どうぞお楽においで下さい。
十右衛 はい、はい、有難うございます。
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(十右衛門は自分の用向きを云い出し兼ねて、もじもじしている。おみのは茶を持っていず。)
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十右衛 どうぞもうお構い下さいますな。
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(おみのは台所に入る。)
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十右衛 (やはりもじもじして。)まことに結構なお住居でございますな。
半七 野郎共が大勢ごろごろしていて男世帯も同様ですから、家のなかは散らかし放題、一向にだらしがございません。
十右衛 いえ、よくお綺麗に片附いて居ります。
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(十右衛門はそこらを見まわしながらやはりもじもじしている。半七は何を云いに来たのかと、相手の顔をながめている。)
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十右衛 よいお天気がつづきまして、まことに仕合せでございます。
半七 ことしは余寒が強くないので大きに楽でございました。もう直きに彼岸が来る。雛市がはじまる。世間もだんだん陽気になって来ましょう。
十右衛 左様でございます。空の色などももうめっきりと春めいて参りました。
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(十右衛門はいつまでももじもじしているので、半七は少し焦れったくなって、煙管《きせる》で火鉢の縁《ふち》をぽんぽん叩く。十右衛門はその音にびっくりしたように半七の顔を見る。)
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半七 そこで、早速ですが、どんな御用でございますね。
十右衛 いや、どうもお忙がしいところへお邪魔に出まして、なんとも申訳がございません。
半七 そんな御挨拶には及びませんから、肝腎の御用を早く仰しゃって下さい。
十右衛 はい、はい。どうも恐れ入りましてございます。
半七 (じれる。)どうもいけねえな。もし、旦那。なんにも恐れ入ることはねえから、早く云って聞かして下さいよ。
十右衛 では、申上げますが……。(ようよう思い切って。)親分も御役柄で何もかも御承知の筈でございますが、具足町の和泉屋のせがれも飛んだことになりまして……。(眼をうるませる。)
半七 ははあ。それじゃあおまえさんもあの和泉屋を御存じなんですかえ。
十右衛 実はわたくしは和泉屋の女房おさきの兄でございます。
半七 むむ、そうですかえ。(少しく形をあらためる。)まったくお気の毒なことでしたね。あの晩お前さんも行っていなすったのか。
十右衛 わたくしは風邪《ふうじゃ》で昼間から臥せって居りましたので、あの晩は芝居見物にも参りませんでしたが、あとでその話を聴きまして実にびっくり致しました。
半七 (うなずく。)お察し申しますよ。
十右衛 就きましては、死んだ者は不時の災難で今更致し方もございませんが、さてそのあとの評判でございます。(ため息をついて。)世間の人の口はまことにうるさいもので、出入りの者などの中には何か詰まらないことを申す者もあるようで、妹も大層心配いたして居ります。
半七 (素知らぬ顔で。)詰まらないこととは……。どんな事を云
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