せえ。
文字清 じゃあ、親分はまだわたくしの云うことを本当にしちゃあ下さらないんですか。
半七 その本当か嘘かを調べているのだ。まあ、まあ、せいちゃあいけねえ。
文字清 きっと調べて下さいますか。
半七 おまえさんに頼まれないでもわたしの役目だ。きっと調べてあげますよ。
文字清 いくら自分の子になっているからと云っても、角太郎を殺したおかみさんは、よもや無事じゃあ済みますまいね。お上できっとかたきを取って下さるでしょうね。
半七 そりゃあ知れたことさ。
文字清 それでもあのくらいの大きい家《うち》になると、内証で色々に手をまわして、いい加減に揉み消してしまうというじゃあありませんか。
半七 (笑う。)それも事による。いくら金を使っても、手をまわしても、人殺しが滅多に帳消しにゃあならねえから、まあ、安心していなさるがいい。
文字清 大丈夫でしょうか。
半七 大丈夫だよ。
文字清 受合いますか。
半七 受合うよ。
文字清 そんならいっそすぐに行ってください。
半七 え、どこへいくのだ。
文字清 これからすぐに和泉屋へ行って、あのおかみさんを召捕ってください。
半七 (又笑う。)はは、そんな駄々をこねちゃあいけねえ。人間ひとりにお縄をかけるというのは重いことだ。
文字清 人間ひとりを殺したのは軽いことですか。さあ、すぐに行ってください。(起ちあがる。)
半七 どうも困るな。(奥に向いて。)おい、おい、おくめ。ちょっと来てくれ。
おくめ はい、はい。(奥よりいず。)もう御用は済んだのですか。
半七 この師匠が無理を云って、おれを困らせていけねえ。なんとかなだめて連れて行ってくれ。
文字清 わたしが無理をいうのじゃあない。親分さんがわたしの云うことを本当にしてくれないんですよ。わたしは口惜しくって、口惜しくって……。(取り乱して泣き伏す。)
おくめ 兄さん、どうしたもんでしょうねえ。
半七 どうすると云って、だまして連れていくよりほかはねえ。師匠はよっぽど取りのぼせているのだ。(文字清に。)おい、師匠。幾度云っても同じことだ。わたしがきっと受合って、おまえの息子のかたきを取ってやるから、その積りでおとなしく帰るがいいぜ。
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(半七はおくめに眼くばせして、早く連れてゆけと云う。)
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おくめ じゃあ、お師匠《しょ》さん。兄さんがあんなに受合ってくれたんですから、きょうはこれで帰ろうじゃありませんか。ね、そうおしなさいよ。さあ、いきましょうよ。
文字清 でも、親分さんは何だかわたしの云うことを本当にしてくれないようですから。(又泣く。)
半七 それもこれも長い目で見ていれば自然に判ることだ。あんまり世話を焼かせねえで素直に帰りなせえ。(おくめに。)さあ、早く連れていけ。
おくめ さあ、おまえさん。(文字清の手をとる。)帰りましょうよ。
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(文字清は無言で泣きながら起ち上がる。おくめは労わるようにして表へ連れ出してゆく。)
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半七 おい、ちょっと待て。おまえ一人じゃあちっと不安心だ。野郎を誰か送らせてやろう。亀のほかに幸次郎がいる筈だ。(二階にむかいて。)おい、幸次郎。来てくれ。
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(二階より子分の幸次郎いず。)
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幸次郎 なんですね。
半七 妹と一緒にあの師匠を送って行ってくれ。大分のぼせているようだから気をつけろ。
幸次郎 わかりました。(すぐに表へ来る。)
おくめ 御苦労さまですね。
幸次郎 この師匠の家《うち》はたしか下谷だったね。それなら遠い旅でもねえ。さあ、行きやしょう。
おくめ 兄さん、さよなら。
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(おくめと幸次郎が附添いて文字清を送ってゆく。半七は縁に出で、池の鯉に麩を出してやりながらじっと考えている。奥より亀吉いず。)
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亀吉 親分。飛んでもねえ気ちげえに取っ捉まって、ひどい目に逢いなすったね。(笑いながら茶碗などを片附ける。)陽気がだんだんぽか付いて来ると、ああいうのが殖えて来るものだ。
半七 そうは云うものの半気ちげえになるのも無理はねえ。考えてみりゃあ可哀そうなものだ。なんとかして早く埒をあけてやりてえものだ。
亀吉 和泉屋の息子はとうとう死んだそうですね。
半七 それだからいよいよ打っちゃっては置かれねえ。
亀吉 芝居の六段目がほんとうの六段目になったのは不思議さね。
半七 不思議といえば不思議だな。
亀吉 あの師匠の云うのはほんとうだろうか。
半七 おめえはどう思う。
亀吉 そりゃあ判らねえ。だが、あんなに半気ちげえになっているのを見ると、まんざら
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