りではない。若い者や女中たちにも今後決して忠臣蔵の噂をしてはならないと、かたく云い渡して置くがいいぜ。
弥助 はい、はい。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
(三人は再び帳面や十露盤にむかっている。向うより半七は着物を着かえて草履をはき、酒に酔いたるていにていず。あとより十右衛門が附添っていず。)
[#ここで字下げ終わり]
十右衛 (不安らしく。)もし、親分さん。大丈夫でございますかえ。
半七 なにが大丈夫だ。神田から京橋まで、この通り真直ぐにあるいて来たじゃあねえか。(云いながらよろよろする。)
十右衛 もし、あぶのうございます。
半七 なにがあぶねえのだ。あぶ[#「あぶ」に傍点]がなければ蜂もねえや。はははははは。まあ、そんな理窟じゃあありませんかえ。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
(半七はよろよろしながら店さきに来る。十右衛門は困った顔をして、附いて来る。)
[#ここで字下げ終わり]
弥助 おお、露月町の旦那様でございましたか。
和吉 いらっしゃいまし。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
(半七はよろけながら店先に腰をかける。十右衛門は立っている。)
[#ここで字下げ終わり]
十右衛 この中《じゅう》はみんなも御苦労でした。さぞくたびれたことでしょう。
伝兵衛 (帳場を出る。)これは入らっしゃいまし。この中はいろいろ御心配にあずかりまして、ありがとうございました。
十右衛 旦那もおかみさんも内ですかえ。
伝兵衛 はい。どなたも奥にお揃いでございます。どうぞおあがり下さい。
半七 そんな挨拶はどうでもいい。わっしの方に少し用があるんだ。
伝兵衛 おお、三河町の親分でございましたか。先夜は御苦労様でございました。いや、どうもお見それ申しまして、とんだ失礼をいたしました。
半七 どいつもこいつもみんな失礼な奴ばかり揃っているのだ。それを一々気にかけていた日にゃあ、ここの店へ足ぶみは出来ねえ。おい、誰でもいいから湯でも水でも一杯持って来てくれ。
伝兵衛 はい、はい。それ、和吉。
和吉 はい、はい。
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(和吉は半七を尻目に視ながら奥に入る。)
[#ここで字下げ終わり]
半七 ああ、酔った、酔った。まっ昼間に飲んだせいか、馬鹿にのぼって来やあがった。
十右衛 まったく暑くなって来ました。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
(十右衛門は店に腰をおろし、ふところから手拭を出して額の汗をふく。)
[#ここで字下げ終わり]
伝兵衛 どなたもよい御機嫌でございますな。まあ、ともかくもおあがり下さい。親分もどうぞ。
半七 おまえさんは今、大きな面をして帳場に坐っていなすったね。番頭さんかえ。
伝兵衛 はい。
十右衛 一番々頭の伝兵衛という者でございます。
半七 なるほど金物屋の番頭だけに、薬鑵《やかん》あたまに出来ていやあがる。どんな音がするか、おれに叩かしてみろ。
伝兵衛 え。
半七 はは、びっくりするな。冗談だ、冗談だ。(弥助に。)おまえさんも番頭かえ。
弥助 はい。弥助と申します。
半七 そっちがおしゅん伝兵衛で、こっちが鮓屋の弥助か。みんな揃って芝居がかりに出来ていやあがるな。それだからこの間のような騒動が起るのだ。今立って行ったのは何というのだね。
弥助 あれも番頭で和吉と申す者でございます。
半七 むむ、和吉というのか。番頭にしちゃあ若けえね。
伝兵衛 当年二十五になりまして、昨年の春から番頭格になって居ります。
半七 そのほかに牡《おす》の犬っころは何匹飼ってありますね。
伝兵衛 (面喰らって。)はい。
半七 はは、犬っころじゃあ判るめえ。男の奉公人のことさ。その犬っころが何匹いるんだよ。
伝兵衛 はい。
半七 小じれってえな。はっきりと返事をしろ。まさかに五百羅漢ほどに鼻をそろえている訳でもあるめえ。考えずともすぐに判る筈だ。
十右衛 (見かねて。)ここの家《うち》の奉公人は若い者が十二人、小僧が五人でございます。
半七 白雲《しらくも》あたまの小僧なんぞに用はねえ。大きい犬っころ十二匹をみんなここへ引っ張り出してください。
十右衛 はい。(伝兵衛と顔をみあわせる。)
半七 とんだ寺子屋だか、一匹ずつに首実験だ。早く引摺って来てください。
十右衛 はい、はい。
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(十右衛門は仕方がないから早く呼んで来いと眼で知らせれば、弥助は心得て店さきに立出で、上のかたに向って呼ぶ。)
[#ここで字下げ終わり]
弥助 おい、おい。誰かいないか。
庄八 はい。はい。
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(上のかたより庄八出で、十右衛門と半七を見てあわてて会釈する。)
[#ここで字下げ終わり]
弥助
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