ほんとうに腹を切った……。そ、それはどういう訳だ。ええ、誰かはっきりと口を利かないか。
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(今まで黙っていた和吉進みいず。)
[#ここで字下げ終わり]
和吉 それはこういうわけでございます。みな様方も御覧の通り、六段目の幕があきまして、腹切りまでは滞りなく済みましたが、若旦那の勘平が刀を腹へ突っ込んで、手負いの台詞《せりふ》になってから、何だか様子がおかしくなったのでございます。
与兵衛 むむ。その手負いになってから、なおさら出来がいいと皆んなも褒めていたのだ。
和吉 その手負いの台詞まわしや思《おもい》入れが稽古の時よりよっぽど念入りだとは思いましたが、ふだんから芝居上手の若旦那のことでございますから、大勢の見物を前に控えて、一倍気を入れてやっているのかと思って居りますと、どうもそれがだんだんおかしくなって来るので、わたくし達も不思議に思いました。
伊之助 わたしもそばで見ていながら、どうも様子が変だとは思いましたが、まさかこんなこととは夢にも気が付きませんでした。
三蔵 そのうちに角さんは倒れたままで起きないので……。
和吉 (ひったくるように。)よくよく見ますと、若旦那はほんとうに腹を切っていたのでございます。(声をふるわせる。)わたくしも実にびっくり致しました。
おさき でも、その刀はほん物の刀じゃあるまいが……。
与兵衛 そうだ、そうだ。芝居で使う銀紙の竹べらで、ほんとうに腹を切る筈はないではないか。
和吉 それがどうも不思議でございます。
与兵衛 損料屋さん。(詰《なじ》るように。)おまえさんの持って来た刀は本身《ほんみ》かえ。
五助 (あわてて。)ええ、飛んでもねえ。なんで本身なんぞを持って来るものですか。わたしが若旦那に渡したのは確かに舞台で使う金貝《かながい》張りに相違ないのですが、それがいつの間にか本身に変っていたので、こんな騒ぎが出来《しゅったい》してしまったのです。
与兵衛 いつの間にか本身に変っていた……。
おさき まあ、どうしたんでしょう。
与兵衛 それがどうも判らないな。
五助 まったく判りませんよ。
与兵衛 判りませんで済むものか。なんにしてもお前さんが係り合いだから、そう思ってください。
五助 でも、旦那……。
与兵衛 ええ、いけない、いけない。どうしてもおまえさんが係り合いだ。
おさき
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