岡本綺堂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)拠《よ》んどころない

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)半|町《ちょう》あまりも

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)あっ[#「あっ」に傍点]と
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     一

 わたしはこれから邦原君の話を紹介したい。邦原君は東京の山の手に住んでいて、大正十二年の震災に居宅と家財全部を焼かれたのであるが、家に伝わっていた古い兜が不思議に唯ひとつ助かった。
 それも邦原君自身や家族の者が取出したのではない。その一家はほとんど着のみ着のままで目白の方面へ避難したのであるが、なんでも九月なかばの雨の日に、ひとりの女がその避難先へたずねて来て、震災の当夜、お宅の門前にこんな物が落ちていましたからお届け申しますと言って、かの兜を置いて帰った。そのときあたかも邦原君らは不在であったので、避難先の家人はなんの気もつかずにそれを受取って、彼女の姓名をも聞き洩らしたというのである。何分にもあの混雑の際であるから、それも拠《よ》んどころないことであるが、彼女はいったい何者で、どうして邦原君の避難さきまでわざわざ届けに来てくれたのか、それらの事情は一切《いっさい》わからなかった。
 いずれその内には判るだろうと、邦原君も深く気にも留めずにいたのであるが、その届け主《ぬし》は今に至るまでわからない。焼け跡の区画整理は片付いて邦原君一家は旧宅地へ立ち戻って来たので、知人や出入りの者などについて心あたりを一々聞きただしてみたが、誰も届けた者はないという。そこで更に考えられることは、平生《へいぜい》ならともあれ、あの大混乱の最中に身許《みもと》不明の彼女が、たとい邦原家の門前に落ちていたとしても、その兜をすぐに邦原家の品物と認めたというのが少しく不審である。第一、邦原家の一族は前にもいう通り、ほとんど着のみ着のままで立退《たちの》いたのであるから、兜などを門前まで持出した覚えはないというのである。そうなると、その事情がいよいよ判らなくなる。まさかにその兜が口をきいて、おれを邦原家の避難先へ連れて行けと言ったわけでもあるまい。蘇鉄《そてつ》が妙国寺へ行こうといい、安宅丸《あたけまる》が伊豆へ行こうといった昔話を、今さら引合いに出すわけにもゆくまい。
 甚だよくない想像であるが、門前に落ちている筈《はず》のないかの兜が、果たして門前に落ちていたとすれば、当夜のどさくさに紛れて何者かが家の内から持出したものではないかと思われる。いったん持出しては見たものの兜などはどうにもなりそうもないので、何か他の金目《かねめ》のありそうな物だけを抱え去って、重い兜はそのまま門前に捨てて行ったのではあるまいか。それを彼女が拾って来てくれたのであろう。盗んだ本人がわざわざと届けに来るはずもあるまいから、それを盗んだ者と、それを届けてくれた者とは、別人でなければならない。盗んだ者を今さら詮議《せんぎ》する必要もないが、届けてくれた者だけは、それが何人《なんぴと》であるかを知って置きたいような気がしてならない、と邦原君は言っている。
 以下は邦原君の談話を紹介するのであるから、その兜について心あたりのある人は邦原君のところまで知らせてやってもらいたい。それによって、彼は今後その兜に対する取扱い方をすこしく変更することになるかも知れないのである。

 まずその兜が邦原家に伝わった由来を語らなければならない。文久二年といえば、今から六十余年のむかしである。江戸の末期であるから、世の中はひどく騒々しい。将軍家のお膝元という江戸も頗《すこぶ》る物騒で、押込みの強盗や辻斬《つじぎ》りが毎晩のように続く。その八月の十二日の宵である。この年は八月に閏《うるう》があったそうで、ここにいう八月は閏の方であるから、平年ならばもう九月という時節で、朝晩はめっきりと冷えて来た。その冷たい夜露を踏んで、ひとりの男が湯島の切通しをぬけて、本郷の大通りへ出て、かの加州《かしゅう》の屋敷の門前にさしかかった。
 前にもいう通り、今夜は八月十二日で、月のひかりは冴え渡っているので、その男の姿はあざやかに照らし出された。かれは単衣《ひとえもの》の尻を端折《はしょ》った町人ていの男で、大きい風呂敷包みを抱えている。それだけならば別に不思議もないのであるが、彼はその頭に鉄の兜をいただいていた。兜には錣《しころ》も付いていた。たといそれが町人でなくても、単衣をきて兜をかぶった姿などというものは、虫ぼしの時か何かでなくてはちょっと見られない図であろう。そういう異形《いぎょう》の男が加州の屋敷の門前を足早に通り過ぎて、やがて追分《おいわけ》に近づこうとするときに、どこから出て来たのか知らないが、不意につかつかと駆け寄って、うしろからその兜の天辺《てっぺん》へ斬りつけた者があった。
 男はあっ[#「あっ」に傍点]と驚いたが、もう振り返ってみる余裕もないので、半分は夢中で半|町《ちょう》あまりも逃げ延びて、路ばたの小さい屋敷へかけ込んだ。その屋敷は邦原家で、そのころ祖父の勘十郎は隠居して、父の勘次郎が家督を相続していたが、まだ若年《じゃくねん》で去年ようよう番入りをしたばかりであるから、屋敷内のことはやはり祖父が支配していたのである。小身《しょうしん》ではあるが、屋敷には中間《ちゅうげん》二人を召使っている。
 兜をかぶった男は、大きい銀杏《いちょう》の木を目あてに、その屋敷の門前へかけて来たが、夜はもう五つ(午後八時)を過ぎているので、門は締め切ってある。その門をむやみに叩いて、中間のひとりが明けてやるのを待ちかねたように、彼は息を切ってころげ込んで来て、中の口――すなわち内玄関の格子さきでぶっ倒れてしまった。
 兜をかぶっているので、誰だかよく判らない。他の中間も出てきて、まずその兜を取ってみると、彼はこの屋敷へも出入りをする金兵衛という道具屋であった。金兵衛は白山前町《はくさんまえまち》に店を持っていて、道具屋といっても主《おも》に鎧《よろい》兜や刀剣、槍、弓の武具を取扱っているので、邦原家へも出入りをしている。年は四十前後で、頗るのんきな面白い男であるので、さのみ近しく出入りをするという程でもないが、屋敷内の人々によく識られているので、今夜彼があわただしく駈け込んで来たについて、人々もおどろいて騒いだ。
「金兵衛。どうした。」
「やられました。」と、金兵衛は倒れたままで唸《うな》った。「あたまの天辺から割られました。」
「喧嘩か、辻斬りか。」と、ひとりの中間が訊《き》いた。
「辻斬りです、辻斬りです。もういけません。水をください。」と、金兵衛はまた唸った。
 水をのませて介抱して、だんだん検《あらた》めてみると、彼は今にも死にそうなことを言っているが、その頭は勿論、からだの内にも別に疵《きず》らしい跡は見いだされなかった。どこからも血などの流れている様子はなかった。
「おい、金兵衛。しっかりしろ。おまえは狐にでも化かされたのじゃあねえか。」と、中間らは笑い出した。
「いいえ、斬られました。確かに切られたんです。」と、金兵衛は自分の頭をおさえながら言った。「兜の天辺から梨子割《なしわ》りにされたんです。」
「馬鹿をいえ。おまえの頭はどうもなっていないじゃあねえか。」
 押し問答の末に、更にその兜をあらためると、成程その天辺に薄い太刀疵のあとが残っているらしいが、鉢その物がよほど堅固に出来ていたのか、あるいは斬った者の腕が鈍《にぶ》かったのか、いずれにしても兜の鉢を撃ち割ることが出来ないで、金兵衛のあたまは無事であったという事がわかった。
「まったく一《ひと》太刀でざくりとやられたものと思っていました。」と、金兵衛はほっとしたように言った。その口ぶりや顔付きがおかしいので、人々は又笑った。
 それが奥にもきこえて、隠居の勘十郎も、主人の勘次郎も出て来た。
 金兵衛はその日、下谷御成道《したやおなりみち》の同商売の店から他の古道具類と一緒にかの兜を買取って来たのである。その店はあまり武具を扱わないので、兜は邪魔物のように店の隅に押込んであったのを、金兵衛がふと見付け出して、元値同様に引取ったが、他にもいろいろの荷物があって、その持ち抱えが不便であるので、彼は兜をかぶることにして、月の明るい夜道をたどって来ると、図《はか》らずもかの災難に出逢ったのであった。最初から辻斬りのつもりで通行の人を待っていたのか、あるいは一時の出来ごころか、いずれにしても彼が兜をかぶっていたのが禍《わざわ》いのもとで、斬る方からいえば兜の天辺から真っ二つに斬ってみたいという注文であったらしい。いくら夜道でも兜などをかぶってあるくから、そんな目にも逢うのだと、勘十郎は笑いながら叱った。
 それでも彼は武士である。一面には金兵衛のばかばかしさを笑いながらも、勘十郎はその兜を見たくなった。斬った者の腕前は知らないが、ともかくも鉢の天辺から撃ちおろして、兜にも人にも恙《つつが》ないという以上、それは相当の冑師《かぶとし》の作でなければならないと思ったので、勘十郎は金兵衛を内へ呼び入れて、燈火《あかり》の下でその兜をあらためた。
 刀剣については相当の鑑定眼を持っている彼も、兜についてはなんにも判らなかったが、それが可なりに古い物で、鉢の鍛《きた》えも決して悪くないということだけは容易に判断された。世のありさまが穏やかでなくなって、いずかたでも武具の用意や手入れに忙がしい時節であるので、勘十郎はその兜を買いたいと言い出すと、金兵衛は一も二もなく承知した。
「どうぞお買いください。これをかぶっていた為にあぶなく真っ二つにされるところでした。こんな縁喜《えんぎ》の悪いものは早く手放してしまいとうございます。」
 その代金は追って受取ることにして、彼はその兜を置いて帰った。

     二

 兜の価《あたい》は幾らであったか、それは別に伝わっていないが、その以来、兜は邦原家の床の間に飾られることになって、下谷の古道具屋の店にころがっているよりは少しく出世したのである。或る人に鑑定してもらうと、それは何代目かの明珍《みょうちん》の作であろうというので、勘十郎は思いもよらない掘出し物をしたのを喜んだという話であるから、おそらく捨値同様に値切り倒して買入れたのであろう。
 それはまずそれとして、その明くる朝、本郷の追分に近い路ばたに、ひとりの侍が腹を切って死んでいるのを発見した。年のころは三十五、六で、見苦しからぬ扮装《いでたち》の人物であったが、どこの何者であるか、その身許を知り得《う》るような手がかりはなかった。その噂《うわさ》を聞いて、金兵衛は邦原家の中間らにささやいた。
「その侍はきっとわたしを斬った奴ですよ。場所がちょうど同じところだから、わたしを斬ったあとで自分も切腹したんでしょう。」
「お前のような唐茄子《とうなす》頭を二つや三つ斬ったところで、なにも切腹するにゃ及ぶめえ。」と、中間らは笑った。
 金兵衛はしきりにその侍であることを主張していたが、彼もその相手の人相や風俗を見届けてはいないのであるから、しょせんは水かけ論に終るのほかはなかった。しかし彼の主張がまんざら根拠のないことでもないという証拠の一つとして、その侍の刀の刃がよほど零《こぼ》れていたという噂が伝えられた。彼は相手の兜を斬り得ないで、却って自分の刀の傷ついたのを恥じ悔《くや》んで、いさぎよくその場で自殺したのであろうと、金兵衛は主張するのであった。
 どういう身分の人か知らないが、辻斬りでもするほどの男がまさかにそれだけのことで自殺しようとは思われないので、万一それが金兵衛の兜を斬った侍であったとしても、その自殺には他の事情がひそんでいなければならないと認められたが、その身許は結局不明に終ったということであった。
 いずれにしても、それは邦原家に取って何のかかり合いもない出来事であったが、その兜について更に新しい出来事が起った。
 それからふた月ほどを過ぎた十月の
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