かりが何かの不思議を照し出すのではないかとも危《あやぶ》まれて、夫婦は一面に云ひ知れない不安をいだきながらも、いはゆる怖いもの見たさの好奇心も手伝つて、その日の早く来るのを待ちわびてゐた。
 その九月十二日がいよ/\来た。その夜の月は去年と同じやうに明るかつた。
 あくる十三日、けふも朝から晴れてゐた。午《ひる》少し前に弱い地震があつた。八《や》つ頃(午後二時)に大野屋の伯母《おば》が近所まで来たと云つて、近江屋の店に立寄つた。呼ばれて、おせきは奥から出て来て、伯母にも一通りの挨拶《あいさつ》をした。伯母が帰るときに、お由は表まで送つて出て、往来で小声でさゝやいた。
「おせきの百日目といふのは昨夜《ゆうべ》だつたのですよ。」
「さう思つたからわたしも様子を見に来たのさ。」と伯母も声をひそめた。「そこで、何か変つたことでもあつて……。」
「それがね、姉さん。」と、お由はうしろを見かへりながら摺寄《すりよ》つた。「ゆうべも九つ(午後十二時)を合図におせきの寝床へ忍んで行つて、寐《ね》ぼけてぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]してゐるのを抱き起して、内の人が蝋燭をかざしてみると――壁には骸骨《がいこつ》の影が映つて……。」
 お由の声は顫《ふる》へてゐた。伯母も顔の色を変へた。
「え、骸骨の影が……。見違ひぢやあるまいね。」
「あんまり不思議ですから好く見つめてゐたんですけれど、確《たしか》にそれが骸骨に相違ないので、わたしはだん/\に怖くなりました。わたしばかりでなく、内の人の眼にもさう見えたといふのですから、嘘ぢやありません。」
「まあ。」と、伯母は溜息《ためいき》をついた。「当人はそれを知らないのかえ。」
「ひどく眠《ねむ》がつてゐて、又すぐに寐てしまひましたから、何にも知らないらしいのです。それにしても、骸骨《がいこつ》が映るなんて一体どうしたんでせう。」
「下谷へ行つて訊《き》いて見たの。」と、伯母《おば》は訊いた。
「内の人は今朝早くに下谷へ行つて、その話をしましたところが、行者様《ぎようじやさま》はたゞ黙つて考へてゐて、わたしにもよく判らないと云つたさうです。」と、お由は声を曇らせた。「ほんたうに判らないのか、判つてゐても云はないのか、どつちでせうね。」
「さあ。」
 判つてゐても云はないのであらうと、伯母は想像した。お由もさう思つてゐるらしかつた。もしさうならば、それは悪いことに相違ない。善《い》いことであれば隠す筈《はず》がないとは、誰でも考へられることである。二人の女は暗い顔をみあはせて、しばらく往来|中《なか》に突つ立つてゐると、その頭の上の青空には白い雲が高く流れてゐた。
 お由はやがて泣き出した。
「おせきは死ぬのでせうか。」
 伯母もなんと答へていゝか判らなかつた。かれも内心には十二分の恐れをいだきながら、兎《と》も角《かく》も間にあはせの気休めを云つて置くの外《ほか》はなかつた。
 伯母は家《うち》へ帰つてその話をすると、要次郎はまた怒つた。
「近江屋の叔父《おじ》さんや叔母《おば》さんにも困るな。いつまで狐《きつね》つかひの行者なんかを信仰してゐるのだらう。そんなことをして此方《こつち》をさん/″\嚇《おど》かして置いて、お仕舞《しまい》に高い祈祷《きとう》料をせしめようとする魂胆《こんたん》に相違ないのだ。そのくらゐの事が判らないのかな。」
「そんなことを云つても、論より証拠で、丁度《ちようど》百日目の晩に怪しい影が映つたといふぢやないか。」と、兄は云つた。
「それは行者が狐を使ふのだ。」
 又もや兄弟|喧嘩《げんか》がはじまつたが、大野屋の両親にもその裁判が付かなかつた。行者を信じる兄も、行者を信じない弟も、所詮《しよせん》は水かけ論に過ぎないので、ゆふ飯を境にしてその議論も自然物別れになつてしまつたが、要次郎の胸はまだ納まらなかつた。ゆふ飯を食《く》つてしまつて、近所の銭湯へ行つて帰つてくると、今夜の月はあざやかに昇つてゐた。
「好い十三夜だ。」と、近所の人たちも表に出た。中には手をあはせて拝んでゐるのもあつた。
 十三夜――それを考へると、要次郎はなんだか家《うち》に落ついてゐられなかつた。彼はふら/\と店を出て、柴井町の近江屋をたづねた。
「おせきちやん、居ますか。」
「はあ。奥にゐますよ。」と、母のお由は答へた。
「呼んで呉《く》れませんか。」と、要次郎は云つた。
「おせきや。要ちやんが来ましたよ。」
 母に呼ばれて、おせきは奥から出て来た。今夜のおせきはいつもよりも綺麗《きれい》に化粧してゐるのが、月のひかりの前に一層美しくみえた。
「月がいゝから表へ拝みに出ませんか。」と、要次郎は誘つた。
 おそらく断るかと思ひの外《ほか》、おせきは素直に表へ出て来たので、両親も不思議に思つた。要次郎もすこし案外に感じた。併《しか》し彼はおせきを明るい月の前にひき出して、その光を恐れないやうな習慣を作らせようと決心して来たのであるから、それを丁度《ちようど》幸ひにして、ふたりは連れ立つて歩き出した。両親もよろこんで出して遣《や》つた。
 若い男と女とは金杉《かなすぎ》の方角にむかつて歩いてゆくと、冷《つめた》い秋の夜風がふたりの袂《たもと》をそよ/\と吹いた。月のひかりは昼のやうに明るかつた。
「おせきちやん。かういふ月夜の晩にあるくのは、好い心持だらう。」と、要次郎は云つた。
 おせきは黙つてゐた。
「いつかの晩も云つた通り、詰らないことを気にするからいけない。それだから気が鬱《ふさ》いだり、からだが悪くなつたりして、お父《とつ》さんや阿母《おつか》さんも心配するやうになるのだ。そんなことを忘れてしまふために、今夜は遅くなるまで歩かうぢやないか。」
「えゝ。」と、おせきは低い声で答へた。
 ――影や道陸神《どうろくじん》、十三夜のぼた餅《もち》――
 子どもの唄《うた》が又きこえた。それは近江屋の店先を離れてから一町ほども歩き出した頃であつた。
「子供が来ても構はない。平気で思ふさま踏ませて遣《や》る方がいゝよ。」と、要次郎は励ますやうに云つた。
 子供の群は十人ばかりが一組になつて横町《よこちよう》から出て来た。かれらは声をそろへて唄ひながら二人のそばへ近寄つたが、要次郎は片手でおせきの右の手をしつかりと握りながら、わざと平気で歩いてゐると、その影を踏まうとして近寄つたらしい子供|等《ら》は、なにを見たのか、急にわつと云つて一度に逃げ散つた。
「お化けだ、お化けだ。」
 かれらは口々に叫びながら逃げた。影を踏まうとして近寄つても、こつちが平気でゐるらしいので、更にそんなことを云つて嚇《おど》したのであらうと思ひながら、要次郎は自分のうしろを見かへると、今までは南に向つて歩いてゐたので一向に気が付かなかつたが、斜めにうしろの地面に落ちてゐる二つの影――その一つは確かに自分の影であつたが、他の一つは骸骨《がいこつ》の影であつたので、要次郎もあつと驚いた。行者《ぎようじや》を狐《きつね》つかひなどと罵《ののし》つてゐながらも、今やその影を実地に見せられて、かれは俄《にわか》に云ひ知れない恐怖に襲はれた。子供等がお化けだと叫んだのも嘘ではなかつた。
 要次郎は不意の恐れに前後の考へをうしなつて、今までしつかりと握りしめてゐたおせきの手を振放して、半分は夢中で柴井町の方へ引返《ひつかえ》して逃げた。
 その注進におどろかされて、おせきの両親は要次郎と一緒にそこへ駈《か》け着けてみると、おせきは右の肩から袈裟斬《けさぎり》に斬《き》られて往来のまん中に倒れてゐた。
 近所の人の話によると、要次郎が駈け出したあとへ一人の侍が通りかゝつて、いきなりに刀をぬいておせきを斬り倒して立去つたといふのであつた。宵の口といひ、この月夜に辻斬《つじぎり》でもあるまい。かの侍も地にうつる怪しい影をみて、たちまちに斬り倒してしまつたのかも知れない。
 おせきが自分の影を恐れてゐたのは、かういふことになる前兆であつたかと、近江屋の親たちは嘆いた。行者《ぎようじや》の奴《やつ》が狐《きつね》を憑《つ》けてこんな不思議を見せたのだと、要次郎は憤《いきどお》つた。しかし誰にも確《たしか》な説明の出来る筈《はず》はなかつた。唯《ただ》こんな奇怪な出来事があつたとして、世間に伝へられたに過ぎなかつた。



底本:「日本幻想文学集成23 岡本綺堂 猿の眼 種村季弘編」国書刊行会
   1993(平成5)年9月20日初版第1刷発行
底本の親本:「綺堂読物集・三」春陽堂
   1926(大正15)年
入力:林田清明
校正:ちはる
2000年12月30日公開
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