月を仰いで、要次郎は夜の寒さが身にしみるやうに肩をすくめた。
「風はないが、なか/\寒い。」
「寒うござんすね。」
「おせきちやん、御覧よ。月がよく冴《さ》えてゐる。」
要次郎に云はれて、おせきも思はず振り仰ぐと、向う側の屋根の物干《ものほし》の上に、一輪の冬の月は、冷《つめた》い鏡のやうに冴えてゐた。
「好いお月様ねえ。」
とは云つたが、忽《たちま》ちに一種の不安がおせきの胸に湧《わ》いて来た。今夜は十二月十三日で、月のあることは判《わか》り切つてゐるのであつたが、今までは何かごた/\[#「ごた」に傍点]してゐたのと、要次郎と一緒にあるいてゐるのとで、おせきはそれを忘れてゐたのである。明るい月――それと反対におせきの心は暗くなつた。急におそろしいものを見せられたやうに、おせきは慌てゝ顔をそむけて俯向《うつむ》くと、今度は地に映る二人の影があり/\と見えた。
それと同時に、要次郎も思ひ出したやうに云つた。
「おせきちやんは月夜の晩には表へ出ないんだつてね。」
おせきは黙つてゐると、要次郎は笑ひ出した。
「なぜそんなことを気にするんだらう。あの晩もわたしが一緒に送つて来ればよかつたつけ。」
「だつて、なんだか気になるんですもの。」と、おせきは低い声で訴へるやうに云つた。
「大丈夫だよ。」と、要次郎はまた笑つた。
「大丈夫でせうか。」
二人はもう宇田川町の通りへ来てゐた。要次郎の云つた通り、この極月《ごくげつ》の寒い夜に、影を踏んで騒ぎまはつてゐるやうな子供のすがたは一人も見出《みいだ》されなかつた。むかしから男女《おとこおんな》の影法師は憎いものに数へられてゐるが、要次郎とおせきはその憎い影法師を土の上に落しながら、摺寄《すりよ》るやうに列《なら》んであるいてゐた。勿論《もちろん》、こゝらの大通りに往来は絶えなかつたが、二つの憎い影法師をわざわざ踏みにじつて通るやうな、意地の悪い通行人もなかつた。
宇田川町をゆきぬけて、柴井町へ踏み込んだときである。どこかの屋根の上で鴉《からす》の鳴く声がきこえた。
「あら、鴉が……」と、おせきは声のする方をみかへつた。
「月夜鴉だよ。」
要次郎がかう云つた途端に、二匹の犬がそこらの路地《ろじ》から駈《か》け出して来て、恰《あたか》もおせきの影の上で狂ひまはつた。はつと思つておせきが身をよけると、犬はそれを追ふやうに駈けあるいて、かれの影を踏みながら狂つてゐる。おせきは身をふるはせて要次郎に取縋《とりすが》つた。
「おまへさん、早く追つて……」
「畜生《ちくしよう》。叱《し》つ、叱つ。」
犬は要次郎に追はれながらも、やはりおせきに附纏《つきまと》つてゐるやうに、かれの影を踏みながら跳《おど》り狂つてゐるので、要次郎も癇癪《かんしやく》をおこして、足もとの小石を拾つて二三度|叩《たた》きつけると、二匹の犬は悲鳴をあげて逃げ去つた。
おせきは無事に自分の家《うち》へ送りとゞけられたが、その晩の夢には、二匹の犬がかれの枕もとで駈けまはるのを見た。
三
今まで、おせきは月夜を恐れてゐたのであるが、その後のおせきは昼の日光をも恐れるやうになつた。日光のかゞやくところへ出れば、自分の影が地に映る。それを何者にか踏まれるのが怖しいので、かれは明るい日に表へ出るのを嫌つた。暗い夜を好み、暗い日を好み、家内でも薄暗いところを好むやうになると、当然の結果として彼女《かれ》は陰鬱《いんうつ》な人間となつた。
それが嵩《こう》じて、あくる年の三月頃になると、かれは燈火《あかり》をも嫌ふやうになつた。月といはず、日と云はず、燈火《あかり》といはず、すべて自分の影をうつすものを嫌ふのである。かれは自分の影を見ることを恐れた。かれは針仕事の稽古《けいこ》にも通はなくなつた。
「おせきにも困つたものですね。」と、その事情を知つてゐる母は、とき/″\に顔をしかめて夫にさゝやくこともあつた。
「まつたく困つた奴《やつ》だ。」
弥助も溜息《ためいき》をつくばかりで、どうにも仕様がなかつた。
「やつぱり一つの病気ですね。」と、お由は云つた。
「まあさうだな。」
それが大野屋の人々にもきこえて、伯母《おば》夫婦も心配した。とりわけて要次郎は気を痛めた。ことに二度目のときには自分が一緒に連れ立つてゐただけに、彼は一種の責任があるやうにも感じられた。
「おまへが傍に附いてゐながら、なぜ早くその犬を追つてしまはないのだねえ。」と、要次郎は自分の母からも叱《しか》られた。
おせきが初めて自分の影を踏まれたのは九月の十三夜である。それからもう半年以上を過ぎて、おせきは十八、要次郎は廿歳《はたち》の春を迎へてゐる。前々からの約束で、今年はもう婿入りの相談をきめることになつてゐるのであるが、肝心の婿取り娘が半気ちがひのやうな、半病人のやうな形になつてゐるので、それも先《ま》づそのまゝになつてゐるのを、おせきの親たちは勿論《もちろん》、伯母夫婦もしきりに心配してゐたのであるが、たゞ一通りの意見や説諭ぐらゐでは、何《ど》うしてもおせきの病を癒《なお》すことは出来なかつた。
なにしろこれは一種の病気であると認めて、近江屋でも嫌がる本人を連れ出して、二三人の医者に診て貰《もら》つたのであるが、どこの医者にも確《たしか》な診断を下すことは出来ないで、おそらく年ごろの娘にあり勝《がち》の気鬱病《きうつびよう》であらうかなどと云ふに過ぎなかつた。そのうちに大野屋の惣領息子《そうりようむすこ》、すなはち要次郎の兄が或《ある》人から下谷《したや》に偉い行者《ぎようじや》があるといふことを聞いて来たが、要次郎はそれを信じなかつた。
「あれは狐使《きつねつか》ひだと云ふことだ。あんな奴《やつ》に祈祷《きとう》を頼むと、却《かえ》つて狐を憑《つ》けられる。」
「いや、その行者はそんなのではない。大抵《たいてい》の気ちがひでも一度御祈祷をして貰へば癒るさうだ。」
兄弟が頻《しき》りに云ひ争つてゐるのが母の耳にも這入《はい》つたので、兎《と》も角《かく》もそれを近江屋の親たちに話して聞かせると、迷ひ悩んでゐる弥助夫婦は非常によろこんだ。併《しか》しすぐに娘を連れて行くと云つても、きつと嫌がるに相違ないと思つたので、夫婦だけが先づその行者をたづねて、彼の意見を一応|訊《き》いて来ることにした。それは嘉永《かえい》二年六月のはじめで、今年の梅雨《つゆ》のまだ明け切らない暗い日であつた。
行者の家《うち》は五条の天神《てんじん》の裏通りで、表構《おもてがま》へは左《さ》ほど広くもないが、奥行《おくゆき》のひどく深い家《うち》であるので、この頃の雨の日には一層うす暗く感じられた。何の神か知らないが、それを祭つてある奥の間《ま》には二本の蝋燭《ろうそく》が点《とも》つてゐた。行者は六十以上かとも見える老人で、弥助夫婦からその娘のことを詳しく聴いた後《のち》に、かれはしばらく眼《め》をとぢて考へてゐた。
「自分で自分の影を恐れる――それは不思議のことでござる。では、兎も角もこの蝋燭をあげる。これを持つてお帰りなさるがよい。」
行者は神前にかゞやいてゐる蝋燭の一本を把《と》つて出した。今夜の子《ね》の刻《こく》(午後十二時)にその蝋燭の火を照して、壁か又は障子《しようじ》にうつし出される娘の影を見とゞけろと云ふのである。娘に何かの憑物《つきもの》がしてゐるならば、その形は見えずとも其《その》影があり/\と映る筈《はず》である。その娘に狐が憑いてゐるならば、狐の影がうつるに相違ない。鬼が憑いてゐるならば鬼が映る。それを見とゞけて報告してくれゝば、わたしの方にも又相当の考へがあると云ふのであつた。かれはその蝋燭《ろうそく》を小さい白木《しらき》の箱に入れて、なにか呪文《じゆもん》のやうなことを唱《とな》へた上で、うや/\しく弥助にわたした。
「ありがたうござります。」
夫婦は押頂《おしいただ》いて帰つて来た。その日はゆふ方から雨が強くなつて、とき/″\に雷《らい》の音がきこえた。これで梅雨《つゆ》も明けるのであらうと思つたが、今夜の弥助夫婦に取つては、雨の音、雷の音、それがなんとなく物すさまじいやうにも感じられた。
前から話して置いては面倒だと思つたので、夫婦は娘にむかつて何事も洩《もら》さなかつた。四つ(午後十時)には店を閉めることになつてゐるので、今夜もいつもの通りにして家内の者を寝かせた。おせきは二階の三畳に寝た。胸に一物《いちもつ》ある夫婦は寐《ね》た振《ふり》をして夜のふけるのを待つてゐると、やがて子《ね》の刻《こく》の鐘がひゞいた。それを合図に夫婦はそつと階子《はしご》をのぼつた。弥助は彼《か》の蝋燭《ろうそく》を持つてゐた。
二階の三畳の襖《ふすま》をあけて窺《うかが》ふと、今夜のおせきは疲れたやうにすや/\と眠つてゐた。お由はしづかに揺《ゆ》り起して、半分は寐ぼけてゐるやうな若い娘を寝床の上に起き直らせると、かれの黒い影は一方の鼠壁《ねずみかべ》に細く揺れて映つた。蝋燭を差出す父の手がすこしく顫《ふる》へてゐるからであつた。
夫婦は恐るゝやうに壁を見つめると、それに映つてゐるのは確《たしか》に娘の影であつた。そこには角《つの》のある鬼や、口の尖《とが》つてゐる狐《きつね》などの影は決して見られなかつた。
四
夫婦は安心したやうに先《ま》づほつとした。不思議さうにきよろきよろ[#「きよろきよろ」に傍点]してゐる娘を再び窃《そつ》と寝かせて、ふたりは抜き足をして二階を降りて来た。
あくる日は弥助ひとりで再び下谷の行者《ぎようじや》をたづねると、老いたる行者は又かんがへてゐた。
「それでは私にも祈祷《きとう》の仕様がない。」
突き放されて、弥助も途方にくれた。
「では、どうしても御祈祷は願はれますまいか。」と、かれは嘆くやうに云つた。
「お気の毒だが、わたしの力には及ばない。しかし、折角《せつかく》たび/\お出でになつたのであるから、もう一度ためして御覧になるがよい。」と、行者は更に一本の蝋燭を渡した。「今夜すぐにこの火を燃《もや》すのではない。今から数へて百日目の夜、時刻はやはり子《ね》の刻《こく》、お忘れなさるな。」
今から百日といふのでは、あまりに先が長いとも思つたが、弥助はこの行者の前で我儘《わがまま》をいふほどの勇気はなかつた。かれは教へられたまゝに一本の蝋燭をいたゞいて帰つた。
かういふ事情であるから、おせきの婿取りも当然延期されることになつた。あんな行者などを信仰するのは間違つてゐると、要次郎は蔭でしきりに憤慨してゐたが、周囲の力に圧せられて、彼はおめ/\それに服従するのほかは無かつた。
「夏の中《うち》にどこかの滝にでも打たせたら好からう。」と、要次郎は云つた。かれは近江屋の夫婦を説いて、王子か目黒の滝へおせきを連れ出さうと企てたが、両親は兎《と》も角《かく》も、本人のおせきが外出を堅く拒《こば》むので、それも結局実行されなかつた。
ことしの夏の暑さは格別で、おせきの夏痩《なつや》せは著《いちじ》るしく眼《め》に立つた。日の目を見ないやうな奥の間《ま》にばかり閉籠《とじこも》つてゐるために、運動不足、それに伴ふ食慾不振がいよ/\彼女《かれ》を疲らせて、さながら生きてゐる幽霊のやうになり果てた。訳を知らない人は癆症《ろうしよう》であらうなどとも噂《うわさ》してゐた。そのあひだに夏も過ぎ、秋も来て、旧暦では秋の終りといふ九月になつた。行者《ぎようじや》に教へられた百日目は九月十二日に相当するのであつた。
それは今初めて知つたわけではない。行者に教へられた時、弥助夫婦はすぐに其日《そのひ》を繰《く》つてみて、それが十三夜の前日に当ることをあらかじめ知つてゐたのである。おせきが初めて影を踏まれたのは去年の十三夜の前夜で、行者のいふ百日目が恰《あたか》も満一年目の当日であるといふことが、彼女《かれ》の父母《ちちはは》の胸に一種の暗い影を投げた。今度こそはその蝋燭《ろうそく》のひ
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング