あるいて、かれの影を踏みながら狂つてゐる。おせきは身をふるはせて要次郎に取縋《とりすが》つた。
「おまへさん、早く追つて……」
「畜生《ちくしよう》。叱《し》つ、叱つ。」
犬は要次郎に追はれながらも、やはりおせきに附纏《つきまと》つてゐるやうに、かれの影を踏みながら跳《おど》り狂つてゐるので、要次郎も癇癪《かんしやく》をおこして、足もとの小石を拾つて二三度|叩《たた》きつけると、二匹の犬は悲鳴をあげて逃げ去つた。
おせきは無事に自分の家《うち》へ送りとゞけられたが、その晩の夢には、二匹の犬がかれの枕もとで駈けまはるのを見た。
三
今まで、おせきは月夜を恐れてゐたのであるが、その後のおせきは昼の日光をも恐れるやうになつた。日光のかゞやくところへ出れば、自分の影が地に映る。それを何者にか踏まれるのが怖しいので、かれは明るい日に表へ出るのを嫌つた。暗い夜を好み、暗い日を好み、家内でも薄暗いところを好むやうになると、当然の結果として彼女《かれ》は陰鬱《いんうつ》な人間となつた。
それが嵩《こう》じて、あくる年の三月頃になると、かれは燈火《あかり》をも嫌ふやうになつた。月といはず、日と云はず、燈火《あかり》といはず、すべて自分の影をうつすものを嫌ふのである。かれは自分の影を見ることを恐れた。かれは針仕事の稽古《けいこ》にも通はなくなつた。
「おせきにも困つたものですね。」と、その事情を知つてゐる母は、とき/″\に顔をしかめて夫にさゝやくこともあつた。
「まつたく困つた奴《やつ》だ。」
弥助も溜息《ためいき》をつくばかりで、どうにも仕様がなかつた。
「やつぱり一つの病気ですね。」と、お由は云つた。
「まあさうだな。」
それが大野屋の人々にもきこえて、伯母《おば》夫婦も心配した。とりわけて要次郎は気を痛めた。ことに二度目のときには自分が一緒に連れ立つてゐただけに、彼は一種の責任があるやうにも感じられた。
「おまへが傍に附いてゐながら、なぜ早くその犬を追つてしまはないのだねえ。」と、要次郎は自分の母からも叱《しか》られた。
おせきが初めて自分の影を踏まれたのは九月の十三夜である。それからもう半年以上を過ぎて、おせきは十八、要次郎は廿歳《はたち》の春を迎へてゐる。前々からの約束で、今年はもう婿入りの相談をきめることになつてゐるのであるが、肝心の婿取り娘が半
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