、やがて夜も九時に近い時刻になっても、夫はまだ戻って来ないのです。こうなると、いよいよ不安心になって来ましたので、わたくしは帳場へ行って相談しますと、帳場でも一緒になって心配してくれました。
 温泉宿に来ている男の客が散歩に出て、二時間や三時間帰らないからといって、さのみの大事件でもないのでしょうが、わたくしどもが新婚の夫婦連れであるらしいことは宿でも承知していますので、特別に同情してくれたのでしょう、宿の男ふたりに提灯を持たせて川の上下《かみしも》へ分かれて、探しに出ることになりました。わたくしも落着いてはいられませんので、ひとりの男と連れ立って川下の方へ出て行きました。
 その晩の情景は今でもありありと覚えています。その頃はここらの土地もさびしいので、比較的に開けている川下の町家の灯も、黒い山々の裾に沈んで、その暗い底に水の音が物すごいように響いています。昼から曇っていた大空はいよいよ低くなって、霧のような細かい雨が降って来ました。
 捜索は結局無効に終りました。川上へ探しに出た宿の男もむなしく帰って来ました。宿からは改めて土地の駐在所へも届けて出ました。夜はおいおいに更けて来ましたが、それでもまだ何処からか帰って来るかも知れないと、わたくしは女中の敷いてくれた寝床の上に坐って、肌寒い一夜を眠らずに明かしました。
 散歩に出た途中で、偶然に知人に行き逢って、その宿屋へでも連れ込まれて、夜の更けるまで話してでもいるのかと、最初はよもや[#「よもや」に傍点]に引かされていたのですが、そんな事がそら頼みであるのはもう判りました。わたくしは途方に暮れてしまいまして、ともかくも電報で東京へ知らせてやりますと、父もおどろいて駈け付けました。兄の夏夫さんも松島さんも来てくれました。
 それにしても、なにか心当りはないか。――これはどの人からも出る質問ですが、わたくしには何とも返事が出来ないのでございます。心当りのないことはありません。それは例のうなぎの一件で、わたくしがそれを迂濶に口走ったために、夫は姿をくらましたのであろうと想像されるのですが、二度とそれを口へ出すのは何分おそろしいような気がしますので、わたくしは決してそれを洩らしませんでした。
 東京から来た人たちもいろいろに手を尽くして捜索に努めてくれましたが、夫のゆくえは遂に知れませんでした。もしや夕闇に足を踏みはずし
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