鰻に呪われた男
岡本綺堂
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)痩形《やせがた》で
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二|尾《ひき》ほど
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ぞっ[#「ぞっ」に傍点]としました。
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一
「わたくしはこの温泉へ三十七年つづけて参ります。いろいろの都合で宿は二度ほど換えましたが、ともかくも毎年かならず一度はまいります。この宿へは震災前から十四年ほど続けて来ております。」
痩形《やせがた》で上品な田宮夫人はつつましやかに話し出した。田宮夫人がこの温泉宿の長い馴染客であることは、私もかねて知っていた。実は夫人の甥にあたる某大学生が日頃わたしの家へ出入りしている関係上、Uの温泉場では××屋という宿が閑静《かんせい》で、客あつかいも親切であるということを聞かされて、私も不図《ふと》ここへ来る気になったのである。
来て見ると、私からは別に頼んだわけでもなかったが、その学生から前もって私の来ることを通知してあったとみえて、××屋では初対面のわたしを案外に丁寧に取扱って、奥まった二階の座敷へ案内してくれた。川の音がすこしお邪魔になるかも知れませんが、騒ぐようなお客さまはこちらへはご案内いたしませんから、お静かでございますと、番頭は言った。
「はい、田宮の奥さんには長いこと御贔屓《ごひいき》になっております。一年に二、三回、かならず一回はかかさずにお出でになります。まことにお静かな、よいお方で……。」と、番頭はさらに話して聞かせた。
どこの温泉場へ行っても、川の音は大抵付き物である。それさえ嫌わなければ、この座敷は番頭のいう通り、たしかに閑静であるに相違ないと私は思った。
時は五月のはじめで、川をへだてた向う岸の山々は青葉に埋められていた。東京ではさほどにも思わない馬酔木《あせび》の若葉の紅く美しいのが、わたしの目を喜ばせた。山の裾には胡蝶花《しゃが》が一面に咲きみだれて、その名のごとく胡蝶のむらがっているようにも見えた。川では蛙の声もきこえた。六月になると、河鹿《かじか》も啼くとのことであった。
私はここに三週間ほどを静かに愉快に送ったが、そういつまで遊んでもいられないので、二、三日の後には引揚げようかと思って、そろそろ帰り支度に取りかかっているところへ、
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