いればよかったのでした。鰻のことなぞは永久に黙っていればよかったのですが、年の若いおしゃべりの私は、ついうっかりと飛んだことを口走ってしまいました。
「あなたその鰻をどうなすって……。」
「小さな鰻だもの、仕様がない。そのまま川へ抛《ほう》り込んでしまったのさ。」
「一ぴきぐらいは食べたでしょう。」
「いや、食わない。」
「いいえ、食べたでしょう。生きたままで……。」
「冗談いっちゃいけない。」
 夫は聞き流すように笑っていましたが、その眼の異様に光ったのが私の注意をひきました。その一|刹那《せつな》に、ああ、悪いことを言ったなと、わたくしも急に気がつきました。結婚後まだ幾日も経たない夫にむかって、迂濶《うかつ》にこんなことを言い出したのは、確かにわたくしが悪かったのです。しかし私として見れば、去年以来この一件が絶えず疑問の種になっているのです。この機会にそれを言い出して、夫の口から相当の説明をきかして貰《もら》いたかったのでございます。
 口では笑っていても、その眼色のよくないのを見て、夫が不機嫌であることを私も直ぐに察しましたので、鰻については再びなんにも言いませんでした。夫も別に弁解らしいことを言いませんでした。それからお茶をいれて、お菓子なぞを食べて、相変らず仲よく話しているうちに、夏の日もやがて暮れかかって、川向うの山々のわか葉も薄黒くなって来ました。それでも夕御飯までには間があるので、わたくしは二階を降りて風呂へ行きました。
 そんな長湯をしたつもりでもなかったのですが、風呂の番頭さんに背中を流してもらったり、湯あがりのお化粧をしたりして、かれこれ三十分ほどの後に自分の座敷へ戻って来ますと、夫の姿はそこに見えません。女中にきくと、おひとりで散歩にお出かけになったようですという。私もそんなことだろうと思って、別に気にも留めずにいましたが、それから一時間も経って、女中が夕御飯のお膳を運んで来る時分になっても、夫はまだ帰って来ないのでございます。
「どこへ行くとも断わって出ませんでしたか。」
「いいえ、別に……。唯ステッキを持って、ふらりとお出かけになりました。」と、女中は答えました。
 それでも帳場へは何か断わって行ったかも知れないというので、女中は念のために聞合せに行ってくれましたが、帳場でもなんにも知らないというのです。それから一時間を過ぎ、二時間を過ぎ
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