怪獣
岡本綺堂
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)暢《のび》やかな
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)名物|柿羊羹《かきようかん》の
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)愛矯[#「愛矯」はママ]
−−
一
「やあ、あなたも……。」と、藤木博士。
「やあ、あなたも……。」と、私。
これは脚本風に書くと、時は明治の末年、秋の宵。場所は広島停車場前の旅館。登場人物は藤木理学博士、四十七、八歳。私、新聞記者、三十二歳。
わたしは社用で九州へ出張する途中、この広島の支局に打合せをする事があって下車したのである。支局では大手町の旅館へ案内してくれたが、その本店には多数の軍人が泊り合せていたので、さらに停車場前の支店へ送り込まれた。どこの土地へ行っても、停車場前の旅館はとかくにざわざわして落着きのないものであるが、ここは旧大手前の姿をそのままに、昔ながらの大きい松並木が長く続いて、その松の青い影を前に見ながら、旅館や商家が軒をつらねているので、他の停車場前に見られないような暢《のび》やかな気分を感じさせるのが嬉しかった。
風呂にはいって、ゆう飯を済ませて、これから川端でも散歩してみようかなどと思いながら、二階の廊下へ出て往来をながめている時、不意にわたしの肩を叩いて「やあ。」と声をかけた人がある。振返ると、それは東京の藤木博士であった。
私は社用で博士の自宅を二、三回訪問したことがある。博士の講演もしばしば聴いている。そんなわけで博士とはお馴染であるが、思いも寄らないところで顔を見合せてちょっとおどろかされた。
「これかちどちらへ……。」と、わたしは訊いた。博士は某官庁の嘱託《しょくたく》になっているから、何かの用件で地方へ出張するのであろうと想像したのであった。
「いや、まっすぐに東京へ帰るのです。」と、博士は答えた。
博士の郷里は九州の福岡で、その実家にいる弟の結婚式に立会うために、先日から帰郷していたのであるが、式もめでたく終って東京へ帰るという。
九州から東京へ帰る博士と、東京から九州へゆく私と、あたかも摺れ違いに、この宿の二階で落合ったのである。機会がなければ、同じ旅館に泊り合せても、たがいに知らず識らずに別れてしまうこともある。一夜の宿で知人に出逢うのは、ほかの場所で出逢った時よりも、特別に懐かしく感じられるのが人情であろう。博士はふだんよりも打解けて言った。
「どうです。用がなければ、私の座敷へ遊びに来ませんか。」
「はあ。お邪魔に出ます。」
川ばたの散歩はやめにして、わたしは直ぐに博士のあとに付いてゆくと、廊下を二度ほど曲った所にある八畳の座敷で、障子の前の縁先には中庭の松の大樹が眼隠しのように高くそびえていた。女中を呼んで茶を入れ換えさせ、ここの名物|柿羊羹《かきようかん》の菓子皿をチャブ台に載せて、博士は私と差向いになった。今晩は急に冷えてまいりましたと、女中も言っていたが、日が暮れてから俄《にわ》かに薄ら寒くなった。その頃わたしはちっとばかり俳句をひねくっていたので、夜寒《よさむ》の一句あるべきところなどとも思った。
「九州はどっちの方へ行くのですか。」
「九州は博多……久留米……熊本……鹿児島……。」と、わたしは答えた。「まだ其他にも四、五ヵ所ばかり途中下車の予定です。」
「ははあ。では、鹿児島本線視察というような訳ですな。」
「まあまあ、そんなわけです。」
「九州は初めてですか。」
「博多までは知っていますが、それから先は初旅です。」
「それでは面白いでしょう。」と、博士は微笑した。「私は九州の生れではあり、殊に旅行は好きの方であるから、学生時代にも随分あるき廻りました。その後も郷里へ帰省するたびに、時間の許すかぎりは方々を旅行したので、九州の主なる土地には靴の跡を留《とど》めているというわけです。あなたは今度の旅行は本線だけで、佐賀や長崎の方へお廻りになりませんか。」
「時間があれば、そっちへも廻りたいと思っています。それに、Mの町には私の友人が旅館を営んでいるので、ついでに尋ねて見たいとも考えているのですが……。」
「Mの町の旅館……。なんという旅館ですか。」と、博士は何げないように訊《き》いたが、その眼は少しく光っているようにも見られた。
「Sという旅館です。停車場からは少し遠い町はずれにあるが、土地では旧家だということで……。その次男は東京に出ていて、わたしと同じ学校にいたのです。」
「その次男という人は国へ帰っているのですか。」
「わたしと同時に卒業して、東京の雑誌社などに勤めていたのですが、家庭の事情で帰郷することになって、今では家の商売の手伝いをしています。」
「いつごろ帰郷したのですか。」
それからそれへと追窮するような博士の態度を、わたしは少しく怪しみながら答えた。
「五年ほど前です。」
「五年ほど前……。」と、博士は過去を追想するように言った。「わたしが泊まったのは七年前だから、その頃にはまだ帰っていなかったのですね。」
「じゃあ、あなたもその旅館にお泊りになった事があるんですか。」
「あります。」と、博士はうなずいた。「その土地に流行する一種の害虫を調査するために、一ヵ月ほどもMの町に滞在していました。そのあいだに近所の町村へ出張したこともありましたが、大抵はS旅館を本陣にしていました。あなたの言う通り、土地では屈指《くっし》の旧家であるだけに、旅館とはいいながら大きい屋敷にでも住んでいるような感じで、まことに落ちついた居心地のいい家でした。老主人夫婦も若主人夫婦も正直な好人物で、親切に出這入《ではい》りの世話をしてくれましたが……。」
言いかけて、博士は表に耳を傾けた。
「雨の音ですね。」
「降って来たようです。」と、わたしも耳を傾けながら言った。「さっきまで晴れていたんですが……。」
「秋の癖ですね。」
ふたりは暫く黙って雨の音を聴いていたが、やがて博士は又しずかに言い出した。
「あなたはS旅館の次男という人から何か聴いたことがありますか、あの旅館にからんだ不思議な話を……。」
「聴きません。S旅館の次男――名は芳雄といって、私とは非常に親しくしていましたが、自分の家について不思議な話なぞをかつて聴かせたことはありませんでした。一体それはどういう話です。」
「わたしも科学者の一人でありながら、真面目でこんなことを話すのもいささかお恥かしい次第であるが、とにかくこれは嘘|偽《いつわ》りでない、わたしが眼《ま》のあたりに見た不思議の話です。S旅館も客商売であるから、こんなことが世間に伝わっては定めて迷惑するだろうと思って、これまで誰にも話したことは無かったのですが、あなたがその次男の親友とあれば、お話をしても差支えは無かろうかと思います。今もいう通り、それは不思議の話――まあ、一種の怪談といってもいいでしょう。お聴きになりますか。」
「どうぞ聴かせて下さい。」と、わたしは好奇の眼をかがやかしながら、問い迫るように相手の顔をみつめた。
話の邪魔をすまいとするのか、表の雨の音はやんだらしい。ただ時どきに軒を落ちる雨だれが、何かをかぞえるように寂しくきこえた。博士は座敷の天井をみあげて少しく考えているらしかったが、下座敷の方で若い女が何か大きい声で笑い出したのを合図のように、居ずまいを直して語り出した。
二
わたしがMの町へ入り込んで、S旅館――仮に曽田屋《そだや》といって置こう。――の客となったのは七年前の八月、残暑のまだ強い頃であった。大抵の地方はそうであるが、ここらも町は新暦、近在は旧暦を用いているので、その頃はちょうど旧盆に相当して、近在は盆踊りで毎晩賑わっていた。わたしはその土地特有の害虫を調査研究するために、町役場や警察署などを訪問して、最初の一週間ほどは毎日忙がしく暮らしていたが、それも先ず一と通りは片付いて、二、三日休養することになった。そのあいだに旅館の人たちとも懇意になって、だんだんに家内の様子をみると、老主人は六十前後、長男の若主人は三十前後、どちらも夫婦揃って健康らしい体格の所有者で、正直で親切な好人物、番頭や店の者や女中たちもみな行儀の好い、客扱いの行届いた者ばかりで、まことに好い宿を取当てたと、わたしも内心満足していたが、唯ひとつ私の眉をひそめさせたのは、ここの家の娘たちの淫《みだ》らな姿であった。
姉はお政といって二十二、妹はお時といって十九、容貌《きりょう》は可もなく、不可もなく、まず普通という程度であるが、髪の結い方、着物の好みが余りに派手やかで、紅|白粉《おしろい》を毒々しいほどに塗り立てた化粧の仕方が、どうしても唯の女とは見えない。勿論、旅館も客商売であるから、その娘たちが相当に作り飾っているのは当然でもあろうが、この姉妹《きょうだい》の派手作りは余りに度を越えている。旧家を誇り、手堅いのを自慢にしている此の旅館の娘たちとはどうしてもうけ取れない。そこらの曖昧《あいまい》茶屋に巣くっている酌婦のたぐいよりも醜《みにく》い。天草《あまくさ》あたりから外国へ出稼ぎする女たちよりも更に醜い。くどくも言う通り、主人も奉公人もみな正直で行儀のいい此の一家内に、どうしてこんなだらしの無い、見るから淫蕩《いんとう》らしい娘たちが住んでいるのかと、わたしは不思議に思った位であった。
残暑の強い時節といい、旧盆に相当しているせいか、ここらの旅館に泊り客は少なく、最初の二、三日は私ひとりであったが、その後に又ひとりの客が来た。それは大阪辺のある保険会社の外交員で、時どきにここらへ出張して来るらしく、旅館の人たちとも心安そうに話していた。年のころは二十七、八で、色の白い、身なりの小綺麗な、いかにも外交員タイプの如才のない男で、おそらく宿帳でも繰って私の姓名や身分を知ったのであろう、朝晩に廊下などで顔を見合せると、「先生、先生。」と、馴れなれしく話し掛けたりした。彼は氷垣明吉という名刺をくれた。
ある日の宵に、わたしは町へ散歩に出た。うす暗い地方の町にこれぞという見る物もないので、わたしは中途から引っ返して、町はずれから近在の方へ出ようとすると、二人の男に挨拶《あいさつ》された。月あかりで透かして視ると、かれらはこのごろ顔なじみになった町役場の書記と小使《こづかい》で、これから近所の川へ夜釣りに行くというのであった。
「ここらの川では何が釣れます。」
そんな話をしながら、わたしも二人とならんで歩いた。一町あまりも町を離れて、小さい土橋にさしかかると、むこうから男と女の二人連れが来て、私たちと摺れ違って通った。男はわたしを見て俄《にわ》かに顔をそむけたが、女は平気で何か笑いながら行き過ぎた。
「曽田屋の気違いめ、又あの保険屋とふざけ散らしているな。」と、若い書記は二人のうしろ姿を見送って、幾分の嫉妬もまじっているように罵った。
男は保険会社の社員の氷垣で、女は曽田屋の妹娘のお時であることを、わたしも知っていた。しかも「気違い」という言葉が私の注意をひいた。
「気違いですか、あの娘は……。」
「まあ、気違いというのでしょうな。」と、老いたる小使は苦笑いをしながら答えた。「東京の先生は御存じありますまいが、曽田屋のむすめ姉妹といえば、ここらでは評判の色気違いで……。今夜もあの通り保険屋の若い男と狂い廻っている始末……。親たちや兄《あに》さんはまったく気の毒ですよ。」
私もまったく気の毒だと思った。揃いも揃って娘二人があの体《てい》たらくでは、親や兄は定めて困っているに相違ない。普通の人は単に、色気違いとして嘲《あざけ》り笑っているに過ぎないらしいが、わたしから観ると、かの娘らは一種の精神病者か、あるいはヒステリー患者のたぐいであった。みだりに嘲り笑うよりも、むしろ気の毒な痛ましい人々ではあるまいかと思われた。わたしは更に小使にむかって訊いた。
「あの姉妹はいつ頃からあんな風になったのですか。」
「二、三年前……。おととし頃からかな。」と、
次へ
全4ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング