小使は書記をみかえった。
「そうだ。おととしの夏ごろからだ。」と、書記は冷やかに言った。「あの家《うち》の普請《ふしん》が出来あがった頃からだろう。」
「あの家で普請をした事があるのですか。」
「表の方は元のままですが……。」と、小使は説明した。「なにしろ古い家で、奥の方はだいぶ傷《いた》んでいるところへ、一昨々年《さきおととし》の秋の大風雨《おおあらし》に出逢ったので、どうしても大手入れをしなければならない。それならばいっそ取毀《とりこわ》して建て換えろというので、その翌年の春、職人を入れてすっかり取毀させて、新しく建て直したのですよ。」
今度初めて投宿した私は、広い旅館の全部を知らないのであるが、小使らの説明によると、曽田屋の家族の住居は、長い廊下つづきで店の方につながっているが、その建物は別棟になっていて、大小|五間《いつま》ほどある。おととし改築したというのは其の一と棟で、さすがは大家《たいけ》だけに、なかなか念入りに出来ているという。それだけの話ならば別に子細《しさい》もないが、その住居の別棟が落成した頃から、娘ふたりが今までとは生れ変ったような人間になって、眼にあまる淫蕩の醜態を世間に暴露するに至ったのは、少しく不思議である。
「親たちはそれを打っちゃって置くのですか。」
「いえ、親たちも兄さん夫婦もひどく心配して、初めのうちは叱ったり諭《さと》したりしていたのですが、姉も妹も肯《き》かないのです。なにしろ人間がまるで変ってしまったのですから……。」と、小使は嘆息するように言った。「あれだけの大きい店でもあり、旧家でもあり、お父さんは町長を勤めたこともある位ですから、その家の娘たちが色気違いのようになってしまっては、世間へ対しても顔向けが出来ません。曽田屋でも困り抜いた挙げ句に、姉は小倉にいる親類に預け、妹は久留米の親類にあずける事にしたのですが、それが又いけない。行く先ざきで男をこしらえて……。それも決まった相手があるならまだしもですけれど、学生だろうが、出前持だろうが、新聞売子だろうが、誰でも構わない。手あたり次第に関係を付けて、人の見る眼も憚《はばか》らずにふざけ散らすというのですから、とてもお話になりません。預けられた家でも呆れてしまって、どこでも断わって返して来る。そうかといって、ほかには変ったことも無いので、気違い扱いにして、病院へ入れるわけにもいかず、座敷牢へ押しこめて置くわけにもいかず、困りながらも其のままにして置くと、いつの間にか泊り客と関係する。旅芸人と駈落ちをして又戻って来る。親泣かせというのは全くあの娘たちのことで、どうしてあんな人間になったのか判りませんよ。」
「普請の出来あがる前までは、ちっともおかしなことは無かったのですな。」
「御承知の通り、あすこの兄さんは手堅い一方のいい人です。娘たちもそれと同じように、子供の時からおとなしい、行儀のいい生れ付きであったのですから、本来ならば姉妹ともに今頃は相当のところへ縁付いて、立派なお嫁さんでいられる筈《はず》なのですが……。貧乏人の娘なら、いっそ酌婦にでも出してしまうでしょうが、あれだけの家では世間の手前、まさかにそんな事も出来ず、もちろん嫁に貰《もら》う人もなし、あんなことをしていて今にどうなるのか。考えれば考えるほど気の毒です。昔から魔がさすというのは、あの娘たちのようなのを言うのでしょうよ。」
現にこの盂蘭盆《うらぼん》にも、姉妹そろって踊りの群れにはいって、夜の更けるまで踊っていたばかりか、村の誰れかれと連れ立って、そこらの森の中へ忍び込んだとか、堤《どて》の下に転げていたという噂《うわさ》もある。その噂のまだ消えないうちに、妹娘は又もや保険会社の若い男と浮かれている。あの氷垣という男は毎年一度ずつはここらへ廻って来て、曽田屋を定宿《じょうやど》としているので、姉とも妹とも関係しているらしいという噂を立てられている。なんにしても困ったものだ、親たちは気の毒だと、老いたる小使は繰り返して言った。
今夜の釣り場は町からよほど距《はな》れていると見えて、これだけの話を聴き終るまでに其処《そこ》らしい場所へは行き着かなかった。人家のまばらな田舎道のところどころに、大きい櫨《はぜ》の木が月のひかりを浴びて白く立っているばかりで、川らしい水明かりは見当らなかった。
どこまでも此の人たちと連立って行くことは出来ない。私はもうここらで引っ返そうと思いながら、やはり一種の好奇心に引摺られて歩きつづけた。
「その普請の前後に、なにか変ったことはなかったのですか。」と、わたしはまた訊いた。今までおとなしかった娘たちの性行が、普請以後にわかに一変したというのは、何かの子細ありげにも思われたからであった。
「普請の前後に……。」と、小使は少し考えていたが、別に思い出すようなこともなかったらしい。
「普請中にも変ったことはなかったようだ。まあ、あの一件ぐらいだな。」と、書記は笑いながら言った。
「なんだ、あんなこと……。あははははは」と、小使も笑い出した。
「あの一件とは……。どんな事です。」と、わたしは重ねて訊いた。
「なに、詰まらない事ですよ。」と、若い書記はまた笑った。
「曽田屋の別棟は五間《いつま》ぐらいですが、ほかにも手入れをする所が相当にあるので、七、八人の大工が絶えず入り込んで、材木の切り組から出来《しゅったい》までには三月以上、やがて四月くらいはかかりましたろう。それは一昨年《おととし》の三月頃から五、六月頃にかけてのことで、その仕事に来た大工はみな泊り込みで働いていたんです。そのなかに西山――名は何というのか知りませんが、とにかく西山という若い大工がまじっていました。年はまだ十九とか二十歳《はたち》とかいうんですが、小僧あがりに似合わず仕事の腕はたいへんに優れていて、一人前の職人もかなわない位であったそうです。それが西山という姓を名乗ってはいますが、実は朝鮮人だともいい、又は琉球人の子で鹿児島で育ったのだともいう噂があって、当人に訊いてもはっきりした返事をしないので、まあどっちかだろう、ということになっていました。見たところは内地人にちっとも変らず、言葉は純粋の鹿児島弁でした。色の蒼白い、痩形《やせがた》の、神経質らしい男でしたが、なにしろ素直でよく働き、おまけに腕が優れているというんですから、親方にも仲間にも可愛がられていました。曽田屋の人たちも可愛がっていたそうです。
すると、あしかけ三月目の五月頃のことでした。さっきから問題になっている曽田屋の娘、お政とお時の姉妹が寺参りに行くとかいうので、髪を結い、着物を着かえて、よそ行きの姿で普請場へ行ったんです。母の身支度の出来るのを待っている間に、なに心なく普請場を覗《のぞ》きに行ったんでしょう。その時はちょうど午《ひる》休みで大工も左官もどこへか行っていて、あの西山がたった一人、何か削り物をしていたんです。姉妹もふだんから西山を可愛がっているので、傍へ寄って何か話しているうちに、どういう切っ掛けで何を言い出したのか知りませんが、要するに西山がふたりの娘にむかって、突然に淫《みだ》らなことを言い出したんです。いや、言い出したばかりでなく、何か怪《け》しからん行動に出《い》でたらしいんです。そこへ親方と他の大工が帰って来て、親方はすぐ西山をなぐり付けました。他の職人にも殴られたそうです。
勿論、親方はたいへんに怒って、出入り場のお嬢さん達に不埒《ふらち》を働くとは何事だ。貴様のような奴は何処へでも行ってしまえと呶鳴《どな》る。娘たちは泣き顔になって奥へ逃げ込む。それが老主人夫婦の耳にもはいったんですが、夫婦ともに好い人ですから、怒っている親方をなだめて無事に済ませたんです。怒る筈の主人が却って仲裁役になったんですから、親方も勘弁するのほかはありません。親方は西山を老主人夫婦、若主人夫婦、娘ふたりの前へ引摺って行って、さんざん謝《あや》まらせたんです。親方というのは暴《あら》っぽい男で、まかり間違えばぶち殺し兼ねないので、西山も真っ蒼になってしまったそうですよ。はははははは。」
「あの親方に取っ捉まっちゃあ、どんな人間だって堪まるまいよ。あははははは。」
小使も声を揃えて笑った。
三
若い職人が出入り場の娘を口説いて失敗した。単にそれだけの事ならば、世間にありふれた一場の笑い話に過ぎないかも知れない。しかし私は深入りして訊いた。
「その後、その西山という大工は相変らず働いていたのですか。」
「働いていました。」と、書記は答えた。「なんでも其の晩はどこへか出て行って、二時間も三時間も帰って来ないので、あいつ、極まりが悪いので夜逃げでもしたのじゃあないかと言っていると、夜が更《ふ》けてこっそり帰って来たそうです。そんなことが三晩ばかり続いて、その後は一度も外出せず、いよいよ落成の日までおとなしく熱心に働いていたといいます。」
「西山というのは此の土地の職人ですか。」
「鹿児島から出て来て、一年ほど前から親方の厄介になっていたんですが、曽田屋の普請が済むと、親方にも無断でふらりと立去ってしまって、それぎり音も沙汰もないそうです。たぶん鹿児島へでも帰ったんでしょう。」
「朝鮮だとか琉球だとかいうには、何か確かな証拠でもあるのですか。」
「さあ。証拠があるか無いか知りませんが、職人伸間ではみんなそう言っていたそうですから、何か訳があるんだろうと思います。」
釣り場はいよいよ眼の前にあらわれて、そこにはかなりに広い川が流れていた。書記と小使はわたしに会釈《えしゃく》して、すすきの多い堤《どて》を降りて行った。わたしは月を踏んで町の方角へ引っ返した。
どう考えても、曽田屋の一家は気の毒である。殊に本人の娘たちは可哀そうである。前にもいう通り、かの姉妹は色情狂というよりも、おそらく一種のヒステリー患者であろう。書記や小使は格別の注意を払っていないらしいが、姉妹に対する若い大工の恋愛事件、それが何かの強い衝撃を彼女らに与えたのではあるまいか。大工は姉妹にむかって何事を言ったのか、何事を仕掛けたのか、その現場に立会っていた者でない限りは、大方こんな事であったろうと想像するにとどまって、その真相を明らかに知り得ないのである。
大工は親方に殴られて、曽田屋の人々に謝罪して、その後はおとなしく熱心に働いていたというが、果たして其の通りであったか。その後にも親方らの眼をぬすんで、若い女たちをおびやかすような言動を示さなかったか。それらの事情が判明しない以上、この問題を明らかに解決することは不可能である。
しかもあの姉妹が果たしてヒステリー患者であるとすれば、それを救う方法が無いではない。曽田屋の父兄らに注意をあたえて、適当の治療法を講ずればよい。だが困るのは、その問題が問題であるだけに、父兄の方から言い出せば格別、わたしの方から父兄にむかって、ここの家の普請中にこんな出来事があったか、又その後に娘たちがどうして淫蕩の女になったか、それらの秘密を露骨に質問するわけにはゆかない。殊に今度初めて投宿した家で、双方の馴染みが浅いだけに猶更工合が悪い。さりとてこのままに見過すのも気が咎《とが》める。せめては番頭にでも内々で注意して置こうかなどと考えながら、もと来た道をぶらぶらと歩いて来ると、月の明かるい宵であるにも拘らず、どこからどうして出て来たのか判らなかったが、おそらく路ばたの櫨《はぜ》の木の蔭からでも飛び出して来たのであろう、ひとりの男の姿が突然にわたしの行く手にあらわれた。と思う間もなく、つづいて又ひとりの女があらわれた。
その男と女が氷垣とお時であることを私はすぐに覚った。お時は何か小さい刃物を持っているらしく、それを月の光りにひらめかしながら、男に追い迫って来るように見られるので、私もおどろいて遮《さえぎ》った。私という加勢を得たので、氷垣も気が強くなったらしく、引っ返して女を取鎮めようとした。お時は見掛けによらない強い力で暴れ狂ったが、なんといっても相手は男二人である
前へ
次へ
全4ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング