から、遂にその場に押しすくめられてしまった。彼女はなんにも言わずにあえいでいた。
「君。早く刃物を取りあげたまえ。」と、わたしは氷垣に注意して、お時の手から剃刀《かみそり》を奪わせた。
半狂乱のような女を押さえは押さえたものの、さてどうしていいか、二人はその始末に困っていると、いい塩梅《あんばい》に二人の男が通りかかった。それは氷垣も私も識らない人たちであったが、曽田屋へ出入りの商人であるらしく、彼らはお時をよく知っているので、私たちと一緒に彼女を護衛しながら、無事に町まで送って来てくれた。
暮れても暑い上に、突然こんな事件に出逢ったので、涼みながらの散歩が却って汗を沸かせる種となった。わたしは曽田屋へ帰って、二階の座敷の欄干に倚《よ》りかかって、暫く息を休めていると、かの氷垣が挨拶に来た。
「先生。とんだ御迷惑をかけまして、なんとも申し訳がありません。」
彼はひどく恐縮していた。そうして、何か頻りに言訳らしいことを繰返していたが、わたしは別に彼を咎めもしなかった。
氷垣の説明によると、今夜はあまり暑いので、自分ひとりで散歩に出ると、あとからお時が追って来て一緒に行こうという。
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