から、遂にその場に押しすくめられてしまった。彼女はなんにも言わずにあえいでいた。
「君。早く刃物を取りあげたまえ。」と、わたしは氷垣に注意して、お時の手から剃刀《かみそり》を奪わせた。
 半狂乱のような女を押さえは押さえたものの、さてどうしていいか、二人はその始末に困っていると、いい塩梅《あんばい》に二人の男が通りかかった。それは氷垣も私も識らない人たちであったが、曽田屋へ出入りの商人であるらしく、彼らはお時をよく知っているので、私たちと一緒に彼女を護衛しながら、無事に町まで送って来てくれた。
 暮れても暑い上に、突然こんな事件に出逢ったので、涼みながらの散歩が却って汗を沸かせる種となった。わたしは曽田屋へ帰って、二階の座敷の欄干に倚《よ》りかかって、暫く息を休めていると、かの氷垣が挨拶に来た。
「先生。とんだ御迷惑をかけまして、なんとも申し訳がありません。」
 彼はひどく恐縮していた。そうして、何か頻りに言訳らしいことを繰返していたが、わたしは別に彼を咎めもしなかった。
 氷垣の説明によると、今夜はあまり暑いので、自分ひとりで散歩に出ると、あとからお時が追って来て一緒に行こうという。それから連立って村の方へ出ると、お時は更に自分にむかって何処へか連れて逃げてくれという。そんなことは出来ないと断わっても、お時は肯《き》かない。無理になだめて引っ返して来ると、お時は帯のあいだから剃刀を取出して、わたしを連れて逃げるのが忌《いや》ならば一緒に死んでくれという。いよいよ持て余して、しまいには怖くなって逃げ出すところへ、あなたがちょうどに来合せたので、まずは無事に済んだのである。さもなければどういうことになったか判らないと、彼は汗を拭きながら語った。
 しかし彼はお時と自分との関係に就いては、なんだか曖昧《あいまい》なことを言っていた。わたしはたって他人の秘密を探り出す必要もなかったが、この際なにかの参考にしたいという考えから、冗談まじりにいろいろ穿索《せんさく》すると、氷垣も結局降参して、実は姉娘のお政とは秘密の関係が無いでもないが、妹のお時とは何の関係もないと白状した。この白状も果たして嘘か本当か判らなかったが、わたしはその以上に追窮することを敢てしなかった。
 氷垣が立去ると、入れ代って旅館の番頭が来た。これは氷垣とは違って、見るからに老実そうな五十余歳の男であったが、その来意は氷垣と同様で、家の娘が途中で種々の御迷惑をかけて相済まないという挨拶であった。彼もひどく恐縮していた。氷垣の恐縮はそれに一種の愛矯[#「愛矯」はママ]も含まれていたが、この老番頭の恐縮は痛々しいほどに真面目なものであった。私はいよいよ気の毒に思うと同時に、番頭がここへ来てくれたのは好都合であるとも思った。
「ここの家《うち》の娘さん達は何か病気でもしているのかね。」と、わたしは何げなく訊いた。
「まことにお恥かしい次第でございます。」と、番頭は泣くように言った。「別に病気というわけでもございませんが……。」
「わたしは医者でないから確かなことは言えないが、素人が見て病気でないと思うような人間でも、専門の医者が見ると立派な病人であるという例もしばしばあるから、主人とも相談して念のために医者によく診察して貰ったらいいだろうと思うが……。」
「はい。」
 とは言ったが、番頭は難渋《なんじゅう》らしい顔色をみせた。さしあたり娘たちのからだに異状があるわけでもないのであるから、医者に診て貰えといっても、おそらく当人たちが承知すまい。もう一つには主人らは非常に外聞《がいぶん》を恥じ恐れているのであるから、この問題については、娘たちを医者に診察させるなどということには、おそらく同意しないであろうと、彼は言った。
 外聞を恐れるというのも一応無理ではないが、これはもう世間に知れ渡っている事実であるから、今さら秘密を守るよりも、進んで医師の診察を求めた方が優《ま》しであると思われたが、何分にも馴染みの浅いわたしとして、あまりに立ち入ってかれこれ云うわけにも行かないので、そのままに黙ってしまった。

     四

 藤木博士がここまで話して来た時に、夜の雨がまたおとずれて来た。博士はひと息ついて、わたしの顔を暫く眺めていた。
「どうです。これだけの話では格別おもしろくもないでしょう。S旅館の娘ふたりが淫蕩の事実を詳しくお話しすると、確かに一編の小説になると思うのですが……。いや、わたしが聴いただけのことでも、それを正直に書いたら発売禁止は請け合いです。いずれにしても、今までの話だけでは、単にその娘たちが放縦淫蕩の女であったというにとどまって、奇談とかいうほどの価値はないのですが、肝腎の話はこれからですよ。あなたは新聞記者で第六感が働くでしょうが、かの娘たちが俄かに淫蕩な女
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