》しからん行動に出《い》でたらしいんです。そこへ親方と他の大工が帰って来て、親方はすぐ西山をなぐり付けました。他の職人にも殴られたそうです。
 勿論、親方はたいへんに怒って、出入り場のお嬢さん達に不埒《ふらち》を働くとは何事だ。貴様のような奴は何処へでも行ってしまえと呶鳴《どな》る。娘たちは泣き顔になって奥へ逃げ込む。それが老主人夫婦の耳にもはいったんですが、夫婦ともに好い人ですから、怒っている親方をなだめて無事に済ませたんです。怒る筈の主人が却って仲裁役になったんですから、親方も勘弁するのほかはありません。親方は西山を老主人夫婦、若主人夫婦、娘ふたりの前へ引摺って行って、さんざん謝《あや》まらせたんです。親方というのは暴《あら》っぽい男で、まかり間違えばぶち殺し兼ねないので、西山も真っ蒼になってしまったそうですよ。はははははは。」
「あの親方に取っ捉まっちゃあ、どんな人間だって堪まるまいよ。あははははは。」
 小使も声を揃えて笑った。

     三

 若い職人が出入り場の娘を口説いて失敗した。単にそれだけの事ならば、世間にありふれた一場の笑い話に過ぎないかも知れない。しかし私は深入りして訊いた。
「その後、その西山という大工は相変らず働いていたのですか。」
「働いていました。」と、書記は答えた。「なんでも其の晩はどこへか出て行って、二時間も三時間も帰って来ないので、あいつ、極まりが悪いので夜逃げでもしたのじゃあないかと言っていると、夜が更《ふ》けてこっそり帰って来たそうです。そんなことが三晩ばかり続いて、その後は一度も外出せず、いよいよ落成の日までおとなしく熱心に働いていたといいます。」
「西山というのは此の土地の職人ですか。」
「鹿児島から出て来て、一年ほど前から親方の厄介になっていたんですが、曽田屋の普請が済むと、親方にも無断でふらりと立去ってしまって、それぎり音も沙汰もないそうです。たぶん鹿児島へでも帰ったんでしょう。」
「朝鮮だとか琉球だとかいうには、何か確かな証拠でもあるのですか。」
「さあ。証拠があるか無いか知りませんが、職人伸間ではみんなそう言っていたそうですから、何か訳があるんだろうと思います。」
 釣り場はいよいよ眼の前にあらわれて、そこにはかなりに広い川が流れていた。書記と小使はわたしに会釈《えしゃく》して、すすきの多い堤《どて》を降りて行った。わたしは月を踏んで町の方角へ引っ返した。
 どう考えても、曽田屋の一家は気の毒である。殊に本人の娘たちは可哀そうである。前にもいう通り、かの姉妹は色情狂というよりも、おそらく一種のヒステリー患者であろう。書記や小使は格別の注意を払っていないらしいが、姉妹に対する若い大工の恋愛事件、それが何かの強い衝撃を彼女らに与えたのではあるまいか。大工は姉妹にむかって何事を言ったのか、何事を仕掛けたのか、その現場に立会っていた者でない限りは、大方こんな事であったろうと想像するにとどまって、その真相を明らかに知り得ないのである。
 大工は親方に殴られて、曽田屋の人々に謝罪して、その後はおとなしく熱心に働いていたというが、果たして其の通りであったか。その後にも親方らの眼をぬすんで、若い女たちをおびやかすような言動を示さなかったか。それらの事情が判明しない以上、この問題を明らかに解決することは不可能である。
 しかもあの姉妹が果たしてヒステリー患者であるとすれば、それを救う方法が無いではない。曽田屋の父兄らに注意をあたえて、適当の治療法を講ずればよい。だが困るのは、その問題が問題であるだけに、父兄の方から言い出せば格別、わたしの方から父兄にむかって、ここの家の普請中にこんな出来事があったか、又その後に娘たちがどうして淫蕩の女になったか、それらの秘密を露骨に質問するわけにはゆかない。殊に今度初めて投宿した家で、双方の馴染みが浅いだけに猶更工合が悪い。さりとてこのままに見過すのも気が咎《とが》める。せめては番頭にでも内々で注意して置こうかなどと考えながら、もと来た道をぶらぶらと歩いて来ると、月の明かるい宵であるにも拘らず、どこからどうして出て来たのか判らなかったが、おそらく路ばたの櫨《はぜ》の木の蔭からでも飛び出して来たのであろう、ひとりの男の姿が突然にわたしの行く手にあらわれた。と思う間もなく、つづいて又ひとりの女があらわれた。
 その男と女が氷垣とお時であることを私はすぐに覚った。お時は何か小さい刃物を持っているらしく、それを月の光りにひらめかしながら、男に追い迫って来るように見られるので、私もおどろいて遮《さえぎ》った。私という加勢を得たので、氷垣も気が強くなったらしく、引っ返して女を取鎮めようとした。お時は見掛けによらない強い力で暴れ狂ったが、なんといっても相手は男二人である
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