画工と幽霊
岡本綺堂
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)頗《すこぶ》る
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)英国|倫敦《ロンドン》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ほっ[#「ほっ」に傍点]
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千八百八十四年、英国|倫敦《ロンドン》発刊の某雑誌に「最も奇なる、実に驚くべき怪談」と題して、頗《すこぶ》る小説的の一種の妖怪談を掲載し、この世界の上には人間の想像すべからざる秘密又は不思議が存在しているに相違ない、これが即ち其《そ》の最も信ずべき有力の証拠であると称して、その妖怪を実地に見届けた本人(画工《がこう》エリック)の談話を其《そ》のまま筆記してある。原文は余《よ》ほど長いものであるから、今その要《よう》を摘《つま》んで左《さ》に紹介する。で、その中に私《わたし》とあるのは、即ち其《そ》の目撃者たる画工自身の事だ。
今年の七月下旬、私は某《ある》友人の紹介で、貴族エル何某《なにがし》の別荘へ避暑かたがた遊びに行った事がある、その別荘は倫敦《ロンドン》の街から九|哩《マイル》ばかり距《はな》れた所にあるが、中々手広い立派な邸宅《やしき》で、何さま由緒ある貴族の別荘らしく見えた。で、私が名刺を出して来意を通じると、別荘の番人が取《とり》あえず私を奥へ案内して、「あなたが御出《おいで》の事は已《すで》に主人《しゅじん》の方から沙汰がございました、就《つき》ましては此《こ》の通りの田舎でございますが、悠々《ゆるゆる》御逗留なすって下さいまし」と、大層|鄭重《ていちょう》に接《あつか》って呉《く》れたので、私も非常に満足して、主人公はお出《いで》になっているのかと尋ねると、「イエまだお出《いで》にはなりませんが、当月|末《すえ》にはお出《いで》なさるに違《ちがい》ありません」との事。それから晩餐の御馳走になって、奥の間《ま》の最上等の座敷へ案内されて、ここを私の居間と定められたが、こんな立派な広いお座敷に寝るのは実に今夜が嚆矢《はじめて》だ、併《しか》し後《あと》で考えるとこのお座敷が一向に有難くない、思い出しても慄然《ぞっ》とするお座敷であったのだ。
神ならぬ身の私は、ただ何が無しに愉快で満足で、十分に手足を伸《のば》して楽々と眠《ねむり》に就いたのが夜の十一時頃、それから一寝入《ひとねいり》して眼が醒めると、何だか頭が重いような、呼吸《いき》苦しいような、何とも云われぬ切ない心持がするので、若《もし》や瓦斯《ガス》の螺旋《ねじ》でも弛《ゆる》んでいるのではあるまいかと、取《とり》あえず寝台《ねだい》を降りて座敷の瓦斯を検査したが、螺旋には更に別条なく、また他《た》から瓦斯の洩《も》れるような様子もない、けれども、何分《なにぶん》にも呼吸《いき》が詰まるような心持で、終局《しまい》には眼が眩《くら》んで来たから、兎《と》にかく一方の硝子《ガラス》窓をあけて、それから半身《はんしん》を外に出して、先《ま》ずほっ[#「ほっ」に傍点]と一息ついた。今夜は月のない晩であるが、大空には無数の星のかげ冴えて、その星明《ほしあかり》で庭の景色もおぼろに見える、昼は左《さ》のみとも思わなかったが、今見ると実に驚くばかりの広い庭で、植込《うえこみ》の立木は宛《まる》で小さな森のように黒く繁茂《しげ》っているが、今夜はそよ[#「そよ」に傍点]との風も吹かず、庭にあるほどの草も木も静《しずか》に眠って、葉末《はずえ》を飜《こぼ》るる夜露の音も聞《きこ》えるばかり、いかにも閑静《しずか》な夜であった。併《しか》し私はただ閑静《しずか》だと思ったばかりで、別に寂しいとも怖いとも思わず、斯《こ》ういう夜の景色は確《たしか》に一つの画題になると、只管《ひたすら》にわが職業にのみ心を傾けて、余念もなく庭を眺めていたが、やがて気が注《つ》いて窓を鎖《と》じ、再び寝台《ねだい》の上に横になると、柱時計が恰《あたか》も二時を告げた。室外の空気に頭を晒《さら》していた所為《せい》か、重かった頭も大分に軽《かろ》く清《すず》しくなって、胸も余《よ》ほど寛《くつろ》いで来たから、そのまま枕に就いて一霎時《ひとしきり》うとうと[#「うとうと」に傍点]と眠ったかと思う間もなく、座敷の中《うち》が俄《にわか》にぱッ[#「ぱッ」に傍点]と明るくなったので、私も驚いて飛び起《お》きる、その途端に何処《どこ》から来たか知らぬが一個《ひとり》の人かげが、この広い座敷の隅の方からふらふら[#「ふらふら」に傍点]と現われ出た。
これには私で無くとも驚くだろう、不思議の光、怪しの人影、これは抑《そ》も何事であろうと、私は再び床《とこ》の上に俯伏《うつぶ》して、窃《ひそ》かに其《そ》の怪しの者の挙動を窺っていると、光はますます明るくなって、人は次第に窓の方へ歩み寄る、其《そ》の人は女、正《まさ》しく三十前後の女、加之《しか》も眼眩《まばゆ》きばかりに美しく着飾った貴婦人で、するする[#「するする」に傍点]と窓の側《そば》へ立寄《たちよ》って、何か物を投出《なげだ》すような手真似をしたが、窓は先刻《せんこく》私が確《たしか》に鎖《と》じたのだから、迚《とて》も自然に開《あ》く筈はない。で、其《その》婦人は如何《いか》にも忌々《いまいま》しそうな、悶《じれ》ったそうな、癪《しゃく》に障《さわ》ると云うような風情で、身を斜めにして私の方をジロリと睨んだ顔、取立《とりた》てて美人と賞讃《ほめはや》すほどではないが、確《たしか》に十人並以上の容貌《きりょう》で、誠に品の好《い》い高尚《けだか》い顔。けれども、その眼と眉の間《あいだ》に一種形容の出来ぬ凄味を帯《おび》ていて、所謂《いわゆ》る殺気を含んでいると云うのであろう、その凄い怖い眼でジロリと睨まれた一瞬間の怖さ恐しさ、私は思わず気が遠くなって、寝台の上に顔を押付《おしつ》けた。と思う中《うち》に、光は忽《たちま》ち消えて座敷は再び旧《もと》の闇、彼《か》の恐しい婦人の姿も共に消えて了《しま》った、私は転げるように寝台から飛降《とびお》りて、盲探《めくらさぐ》りに燧木《マッチ》を探り把《と》って、慌てて座敷の瓦斯《ガス》に火を点《とぼ》し、室内昼の如くに照《てら》させて四辺《あたり》隈《くま》なく穿索したが固《もと》より何物を見出そう筈もなく、動悸《どうき》の波うつ胸を抱えて、私は霎時《しばらく》夢のように佇立《たたず》んでいたが、この夜中《やちゅう》に未《ま》だ馴染《なじみ》も薄い番人を呼起《よびおこ》すのも如何《いかが》と、その夜は其《そ》のままにして再び寝台へ登《あが》ったが、彼《か》の怖しい顔がまだ眼の前《さき》に彷彿《ちらつ》いて、迚《とて》も寝られる筈がない、ただ怖い怖いと思いながら一刻千秋の思《おもい》で其《その》夜《よ》を明《あか》した。と、斯《こ》ういうと、諸君は定めて臆病な奴だ、弱虫だと御嘲笑《おわらい》なさるだろうが、私も職業であるから此《こ》れまでに種々《いろいろ》の恐しい図を見た、悪魔の図も見た、鬼の図も見た、併《しか》し今夜のような凄い恐しい女の顔には曾《かつ》て出逢った例《ためし》がない、唯《ただ》見れば尋常一様《じんじょういちよう》の貴婦人で、別に何の不思議もないが、扨《さて》その顔に一種の凄味を帯びていて、迚《とて》も正面から仰《あお》ぎ視《み》るべからざる恐しい顔で、大抵の婦人《おんな》小児《こども》は正気を失うこと保証《うけあい》だ。
扨《さて》その翌朝になると、番人夫婦が甲斐甲斐《かいがい》しく立働《たちはたら》いて、朝飯の卓子《テーブル》にも種々《いろいろ》の御馳走が出る、その際、昨夜《ゆうべ》の一件を噺《はな》し出そうかと、幾たびか口の端《さき》まで出かかったが、フト私の胸に泛《うか》んだのは、若《もし》や夢ではなかったかと云う一種の疑惑《うたがい》で、迂濶《うかつ》に詰《つま》らぬ事を云い出して、飛《とん》だお笑い種《ぐさ》になるのも残念だと、其《そ》の日は何事も云わずに了《しま》ったが、何《ど》う考えても夢ではない、確《たしか》に実際に見届けたに違いない、併《しか》し実際にそんな事のあろう筈がない、恐らくは夢であろう、イヤ事実に相違ないと、半信半疑に長い日を暮して、今日もまた闇《くら》き夜となった、夢か、事実か、その真偽を決するのは今夜にあると、私は宵から寝台《ねだい》に登《あが》ったが、眼は冴えて神経は鋭く、そよ[#「そよ」に傍点]との風にも胸が跳《おど》って迚《とて》も寝入られる筈がない、その中《うち》に段々、夜も更《ふ》けて恰《あたか》も午前二時、即ち昨夜《ゆうべ》とおなじ刻限になったから、汝《おの》れ妖怪変化|御《ご》ざんなれ、今夜こそは其《そ》の正体を見とどけて、あわ好《よ》くば引捉《ひっとら》えて化《ばけ》の皮を剥《は》いで呉《く》れようと、手ぐすね引いて待構《まちかま》えていると、神経の所為《せい》か知らぬが今夜も何だか頭の重いような、胸の切ないような、云うに云われぬ嫌な気持になって、思わず半身《はんしん》を起《おこ》そうとする折こそあれ、闇《くら》い、闇《くら》い、真闇《まっくら》な斯《こ》の一室が俄《にわか》にぱっ[#「ぱっ」に傍点]と薄明るくなって恰《あたか》も朧月夜《おぼろづきよ》のよう、扨《さて》はいよいよ来たりと身構えして眼を瞠《みは》る間《ひま》もなく、室《しつ》の隅から忽《たちま》ち彼《か》の貴婦人の姿が迷うが如くに現われた。ハッと思う中《うち》に、貴婦人は昨夜《ゆうべ》の如く、長い裾《すそ》を曳《ひ》いてするする[#「するする」に傍点]と窓の口へ立寄《たちよ》って、両肱《りょうひじ》を張って少し屈《かが》むかと見えたが、何でも全身の力を両腕に籠めて、或物《あるもの》を窓の外へ推出《おしだ》し突出《つきだ》すような身のこなし、それが済むと忽《たちま》ち身を捻向《ねじむ》けて私の顔をジロリ、睨まれたが最期、私はおぼえず悚然《ぞっ》として最初《はじめ》の勇気も何処《どこ》へやら、ただ俯向《うつむ》いて呼吸《いき》を呑んでいると、貴婦人は冷《ひやや》かに笑って又|彼方《あなた》へ向直《むきなお》るかと思う間もなく、室内は再び闇《くら》くなって其《そ》の姿も消え失せた、夢でない、幻影《まぼろし》でない、今夜という今夜は確《たしか》に其《そ》の実地を見届けたのだ、あれが俗《よ》にいう魔とか幽霊とか云うものであろう。
もうこの上は我慢も遠慮もない、その翌朝例の如く食事を初めた時に、私は番人夫婦に向《むか》って、「お前さん達は長年この別荘に雇われていなさるのかね」と、何気なく尋ねると、夫の方は白髪頭《しらがあたま》を撫でて、「はい、私《わたく》しは当年五十七になりますが、丁度《ちょうど》四十一の年からここに雇われて居ります」と云う。私も怪談を探り出す端緒《いちぐち》に困ったが、更に左《さ》あらぬ体《てい》で、「併《しか》しお前さん達は夫婦|差向《さしむか》いで、こんな広い別荘に十何年も住んでいて、寂しいとか怖いとか思うような事はありませんかね」と、それとは無しに探りを入れたが、相手は更に張合《はりあい》のない調子で、「別に何とも思いません、斯《こ》うして数年《すねん》住馴《すみな》れて居りますと、別に寂しい事も怖い事もありません」と、笑っている。けれども、怖い事や怪しい事が無い筈はない、現に私が二晩もつづけて彼《か》の妖怪を見届けたのだ。で、更に問《とい》を替《かえ》て、「私の拝借しているアノお座敷は中々立派ですね、お庭もお広いですね、実は昨夜、夜半《よなか》に眼が醒めたのでアノ窓をあけて庭を眺めて居《い》ましたが、夜の景色は又格別ですね」と、そろそろ本題に入《い》りかかると、番人の女房が首肯《うなず》いて、「お庭は随分お広うござんすから、夜の景色は中々|宜《よろ》しゅうございましょう、併《しか》し貴方、アノ窓は普通《なみ》の窓より余《よ》ほど低く出来ていますから、馴れない方がウッカ
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