ので、表向《おもてむき》の罪人にこそならないけれども、御親類御一門も皆その奥様を忌嫌《いみきら》って、誰《たれ》も快く交際する者もなく、果《はて》は本夫《おっと》の殿様さえも碌々《ろくろく》に詞《ことば》を交《かわ》さぬ位《くらい》。で、奥様も人に顔を見られるのを厭《いと》って、年中アノ座敷に閉籠《とじこも》ったままで滅多に外へ出た事も無かったでしたが、ツマリ自分の良心に責められたのでしょう、気病《きやみ》のようにブラブラと寝つ起きつ、凡《およ》そ一年ばかりも経つ中《うち》に、ある日アノ窓の側《そば》まで行くと、急に顔色が変《かわ》ってパッタリ倒れたまま死んで了《しま》ったそうです。心柄《こころがら》とは云いながら誠にお気の毒な事で、それから後《のち》は愈《いよい》よ其《そ》の奥様が若様を殺したに相違ないと決定して、今まで優しい方だ、美しい奥様だと誉めた者までが、継子殺しの鬼よ、悪魔よと皆口々に罵《ののし》ったという事です」と、苦々《にがにが》しげに物語る。以上の噺《はなし》で彼《か》の怪しい貴婦人の正体も大抵推察された。で、そう事が解って見ると、私は猶々《なおなお》怖く恐しく感じて、迚《とて》もここに長居する気がないから、其日《そのひ》の中《うち》に早々《そうそう》ここを引払《ひきはら》って、再び倫敦《ロンドン》へ逃帰《にげかえ》る。その仔細を知らぬ番人夫婦は、余りお早いではありませんか、せめてモウ五六日、せめて殿様がお出《いで》になるまで、と詞《ことば》を尽して抑留《ひきと》めたが、私はモウ気が気でない、無理に振切《ふりき》って逃げて帰った。
 で、私の臆病には自分ながら愛想《あいそ》の竭《つ》きる位で、倫敦へ帰った後《のち》も、例の貴婦人の怖い顔が明けても暮れても我眼《わがめ》に彷彿《ちらつ》いて、滅多に忘れる暇《ひま》がない。そこで私も考えた、自分の職業は画工である、斯《かか》る怪異《あやしみ》を見て唯《ただ》怖い怖いと顫《ふる》えているばかりが能でもあるまい、其《そ》の怪しい形の有《あり》のままを筆に上《のぼ》せて、いかに其《そ》れが恐しくあったかと云う事を他人《ひと》にも示し、また自分の紀念《きねん》にも存して置こうと、いしくも思い立ったので、其日《そのひ》から直《ただ》ちに画筆《えふで》を把《と》って下図《したず》に取《とり》かかった。で、わが眼の前に
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