咲く。花壇などには及ばない、垣根の隅でも裏手の空地でも簇々《そうそう》として発生する。あまりに強く、あまりに多いために、ややもすれば軽蔑され勝《がち》の運命にあることは、かの鳳仙花《ほうせんか》などと同様であるが、私は彼を愛すること甚だ深い。
 炎天の日盛りに、彼を見るのも好いが、秋の露がようやく繁く、こおろぎの声がいよいよ多くなる時、花もますますその色を増して、明るい日光の下に咲き誇っているのは、いかにも鮮かである。所詮は野人の籬落《りらく》に見るべき花で、富貴の庭に見るべきものではあるまいが、我々の荒庭には欠くべからざる草花の一種である。
 その次は薄で、これには幾多の種類があるが、普通に見られるのは糸すすき、縞すすき、鷹の羽すすきに過ぎない。しかも私の最も愛好するのは、そこらに野生の薄である。これは宿根の多年草であるから、もとより種まきの世話もなく、年々歳々おい茂って行くばかりである。野生のすすきは到るところに繁茂しているので、ひと口にカヤと呼ばれて殆《ほとん》ど園芸家には顧みられず、人家の庭に栽えるものではないとさえもいわれているが、絵画や俳句ではなかなか重要の題材と見なされている。
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十郎の簑にや編まん青薄
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 これは角田竹冷翁の句であるが、まったく初夏の青すすきには優しい風情がある。それが夏を過ぎ、秋に入ると、殆ど傍若無人ともいうべき勢いで生い拡がってゆく有様、これも一種の爽快を感ぜずにはいられない。殊《こと》に尾花がようやく開いて、朝風の前になびき、夕月の下にみだれている姿は、あらゆる草花のうちで他にたぐいなき眺めである。
 すすきは夏も好し、秋もよいが、冬の霜を帯びた枯すすきも十分の画趣と詩趣をそなえている。枯れかかると直ぐに刈り取って風呂の下に投げ込むような徒《やから》はともに語るに足らない。しかも商売人の植木屋とて油断はならない。現に去年の冬の初めにも、池のほとりの枯すすきを危く刈り取られようとするのを発見して、私があわてて制止したことがある。彼らもこの愛すべき薄を無名の雑草並に取扱っているらしい。
 市内の狭い庭園は薄を栽えるに適しないので、私は箱根や湯河原などから持ち来って移植したが、いずれも年々に痩せて行くばかりであった。目黒に移ってから、近所の山や草原や川端をあさって、野生の大きい幾株を引抜い
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