て来た。誰も知っていることであろうが、薄の根を掘るのはなかなかの骨折り仕事で、書生もわたしもがっかり[#「がっかり」に傍点]したが、それでもどうにか引摺って来て、池のほとり、垣根の隅、到るところに栽え込むと、ここらはさすがに旧郊外だけに、その生長はめざましく、あるものは七、八尺の高きに達して、それが白馬の尾髪をふり乱したような尾花をなびかせている姿は、わが家の庭に武蔵野の秋を見るここちである。あるものは小さい池の岸を掩《おお》って、水に浮かぶ鯉の影をかくしている。あるものは四つ目垣に乗りかかって、その下草を圧している。生きる力のこれほどに強大なのを眺めていると、自分までがおのずと心強いようにも感じられて来るではないか。
 すすきに次いで雄姿堂々たる草花は、鶏頭と日まわりである。いずれも野生的であり、男性的であるこというまでもない。日まわりも震災直後はバラックの周囲に多く栽えられて一種の壮観を呈していたが、区劃整理のおいおい進捗すると共に、その姿を東京市内から消してしまって、わずかに場末の破れた垣根のあたりに、二、三本ぐらいずつ栽え残されているに過ぎなくなった。しかも盛夏の赫々《かくかく》たる烈日の下に、他の草花の凋《しお》れ返っているのをよそに見て、悠然とその大きい花輪をひろげているのを眺めると、暑い暑いなどと弱ってはいられないような気がする。
 鶏頭も美しいものである。これにも種々あるらしいが、やはり普通の深紅色がよい。オレンジ色も美しい。これも初霜の洗礼を受けて、その濃い色を秋の日にかがやかしながら、見あぐるばかりに枝や葉を高く大きく拡げた姿は、まさに目ざましいと礼讃するのほかはない。わたしの庭ばかりでなく、近所の籬落には皆これを栽えているので、秋日散歩の節には諸方の庭をのぞいて歩く。それが私の一つの楽《たのし》みである。葉鶏頭は鶏頭に比してやや雄大の趣を欠くが、天然の錦を染め出した葉の色の美しさは、なんとも譬えようがない。しかもわたしの庭の葉鶏頭は、どういうわけか年々の成績がよろしくない。他から好い種を貰って来ても、あまり立派な生長を遂げない。私はこれのみを遺憾に思っている。
 わたしの庭の草花は勿論これに留まらないが、わたしの最も愛するものは以上の数種で、いずれも花壇に栽えられているものではない。それにつけても、考えられるのは自然の心である。自然は人の労力を
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