へちま[#「へちま」に傍点]の蔓《つる》も葉も思うさま伸びて拡《ひろ》がって、大きい実が十五、六もぶらり[#「ぶらり」に傍点]と下ったので、私たちは子供のように手をたたいて嬉しがった。
その翌年の夏、銀座の天金の主人から、暑中見舞として式亭三馬自画讃の大色紙の複製を貰った。それはへちま[#「へちま」に傍点]でなく、夕顔の棚の下に農家の夫婦が凉んでいる図で、いわゆる夕顔棚の下凉みであろう。それに三馬自筆の狂歌が書き添えてある。
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なりひさご、なりにかまはず、すゞむべい
風のふくべの木蔭たづねて
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これを見て、わたしは再びへちま[#「へちま」に傍点]の棚が恋しくなったが、その頃はもう麹町《こうじまち》の旧宅地へ戻っていたので、市内の庭にはへちま[#「へちま」に傍点]を栽えるほどの余地をあたえられなかった。そのまま幾年を送るうちに、一昨年から目黒へ移り住むことになったので、今度は本職の植木屋に頼んで相当の棚を作らせると、果してその年の成績はよかった。昨年の出来もよかった。
私の家ばかりでなく、ここらには同好の人々が多いとみえて、所々に糸瓜を栽えている。棚を作っているのもあり、あるいは大木にからませているのもあり、軒から家根へ這《は》わせているのもあるが、皆それぞれに面白い。由来、へちま[#「へちま」に傍点]というものはぶらり[#「ぶらり」に傍点]と下っている姿が、何となく間が抜けて見えるので、とかくに軽蔑される傾きがあって、人を罵《ののし》る場合にも「へちま[#「へちま」に傍点]野郎」などというが、そのぶらり[#「ぶらり」に傍点]とした所に一種の俳味があり、一種の野趣があることを知らなければならない。その実ばかりでなく、大きい葉にも、黄《きいろ》い花にも野趣横溢、静にそれを眺めていると、まったく都会の塵の浮世を忘れるの感がある。糸瓜を軽蔑する人々こそかえって俗人ではあるまいかと思う。
次は百日草で、これも野趣に富むがために、一部の人々からは安っぽく見られ易《やす》いものである。梅雨のあける頃から花をつけて、十一月の末まで咲きつづけるのであるから、実に百日以上である上に、紅、黄、白などの花が続々と咲き出すのは、なんとなく爽快の感がある。元来が強い草であるから、蒔きさえすれば生える、生えれば伸びる、伸びれば
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