彼が挨拶なしに行き過ぎてしまったのも無理はなかった。勤勉の大尉殿がこの際に、見す見す釣れそうもない所で悠々と糸を垂れている筈がない。こう思いながらも、佐山君の胸にはまだ幾分の疑いが残っていて、蘆のあいだから釣竿を持って出て来た人は、どうも向田大尉に相違ないらしく思われてならなかった。しかし、どちらにしたところで、それがさしたる大問題でもないので、佐山君もその以上に深く考えて見ようともしなかった。
「それとも、君は狐に化かされたのかも知れないよ。」と、朋輩はからかうように又笑った。「君も知っているだろうが、あの火薬庫の近所には狐や狸がたびたび出て来るんだからね。この頃は滅多《めった》にそんな話は聞かないが、以前はよくあの辺で狐に化かされた者があったそうだ。」
「そうかも知れない。」
佐山君も笑った。しかし内心はあまり面白くなかった。どう考えても、かの男は向田大尉に相違ないように思われた。なんとかして大尉が確かにあすこで魚釣りをしていたという証拠をつかまえて、自分をあざけっている朋輩どもを降参させてやりたいようにも思ったが、この上にそんなことを考えるべく彼はあまりに疲れていた。十時ごろに
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