大尉も細君もいっさい語らなかった。佐山君たちも遠慮してなんにも訊かなかった。混雑の際に邪魔をするのも悪いと思って、二人は早々に暇乞いをした。
「そうしますと、別に御用はございませんかしら。」
「ない、ない。」と、大尉は笑いながら首をふった。「支店長にもどうぞよろしく。」
「はい。いずれお見送りに出ます。」
二人は店へ帰ってその通りを報告すると、支店長は黙ってうなずいていた。しかし彼の顔色もなんだか陰《くも》っているように見えた。向田大尉がここを立去るのは余り好い意味でないらしいと、佐山君はひそかに想像していた。それから三日目の夜汽車《よぎしゃ》で向田大尉の一家族はいよいよここを出発することになった。大尉は出発の時刻を秘密にしていたのであるが、どこで聞き伝えたのか、見送り人はなかなか多かった。その汽車の出て行くのを見送って、支店長は思わず溜息をついた。
「いい人だっけがなあ。」
それから半月ほど経って、向田大尉から支店長にあてた郵便が到着した。状袋には単に向田とばかりで、その住所番地は書いてなかったが、消印が東京であることだけは確かに判った。佐山君はその郵便物を支店長の部屋へ持って行
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