噂が伝えられた。向田大尉はほんとうに死んだらしいというのである。狐が殺されたのではなく、向田大尉が殺されたのである。現にその事件の翌夜、大尉の自宅から白木の棺をこっそりと運び出したのを見た者があるというのである。しかし佐山君は、すぐにその噂を否認した。狐が殺されたという翌朝、自分は司令部の門前で確かに向田大尉と顔を見合せて、いつもの通りに挨拶までも交換したのであるから、大尉が死んでしまった筈は断じてないと、佐山君はあくまでも主張していると、あたかもそれを裏書きするように、また新しい噂がきこえた。大尉の家から出たのは人間の葬式ではない、かの古狐の死骸を葬ったのである。畜生とはいえ、仮りにも自分の形を見せたものの死骸を野にさらすに忍びないというので、向田大尉はその狐の死骸を引取って来て、近所の寺に葬ったというのであった。
「そうだ。きっとそうだ。」と、佐山君は言った。
 しかし、ここに一つの不審は、その後に司令部に出入りする者が曾《かつ》て向田大尉の姿を見かけないことであった。大尉は病気で引籠っているのだと、司令部の人たちは説明していたが、なにぶんにも本人の姿がみえないということが諸人の疑いの種になって、大尉の葬式か、狐の葬式か、その疑問は容易に解決しなかった。あるとき佐山君が支店長にむかって、向田大尉殿はたしかに生きていると主張すると、支店長は意味ありげに苦笑いをしていた。そうして、こんなことを言った。
「狐の葬式はどうだか知らないが、向田大尉は生きているよ。」
 そのうちに、十月ももう半ばになって、沙河《しゃか》会戦の新しい公報が発表された。町の人たちの注意は皆その方に集められて、狐の噂などは自然に消えてしまった。ここは冬が早いので、火薬庫付近の草むらもだんだんに枯れ尽くした。沙河会戦の続報もたいてい発表されてしまって、世間では更に新しい戦報を待ちうけている頃に、向田大尉は突然この師団を立去るという噂がまた聞えた。これで大尉が無事に生きている証拠は挙がったが、他に転任するともいい、あるいは戦地に出征するともいい、その噂がまちまちであった。佐山君の支店ではこれまで商売上のことで、向田大尉には特別の世話になっていた。ことに平素から評判のよかった人だけに、突然ここを立去ると聞いて、誰もかれも今さら名残り惜しいようにも思った。
 支店長は相当の餞別を持って、向田大尉の自宅を
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