ためいき》をついた。ゆうべ逢った魚釣りの人もやはりその狐ではなかったかとも思われた。
戸塚特務曹長が平素から非常にまじめな人物であることを佐山君はよく知っていた。口では信じられないと言いながらも、特務曹長は眼《ま》のあたりに見せ付けられたこの不思議を、あくまでも不思議の出来事として素直に承認するよりほかはないらしかった。話はこれでひとまず途切れて、二人は黙って丘の裾までゆき着いた。すすきや茅《かや》が一面に生い茂っている中に、ただひと筋の細い路が蛇のようにうねっているのを、二人はやはり黙って登って行った。頭の上からは枯れた木の葉が時々ひらひらと落ちて来た。
「大尉殿に化けた狐が殺されたのは、この辺だそうです。」
特務曹長は指さして教えた。それは火薬庫の門前で、枯れたすすきが大勢の足あとに踏みにじられて倒れているほかには、なんにも新しい発見はなさそうであった。
三
特務曹長に別れて帰る途中も、佐山君はこの奇怪な事件の解決に苦しんでいた。どう考えても、そんな不思議がこの世の中にあるべき筈がなかった。しかし、どこの国でも戦争などの際にはとかくいろいろの不思議が伝えられるもので、現に戦死者の魂がわが家に戻って来たというような話が、この町でも幾度か伝えられている。こうした場合には狐が人間に化けたというような信じがたい話も、案外なんらの故障なしに諸人《しょにん》に受け入れられるものである。佐山君が店へ帰ってそれを報告すると、平素はなにかにつけて小《こ》理屈を言いたがる人たちまでが、ただ不思議そうにその話をきいているばかりで、正面からそれを言い破ろうとする者もなかった。
いかに秘密を守ろうとしても、こういうことは自然に洩れやすいもので、火薬庫の門前に起った奇怪の出来事の噂はそれからそれへと町じゅうに拡がった。それには又いろいろの尾鰭《おひれ》をそえて言いふらすものもあるので、師団の方では、この際あらぬ噂を伝えられて、いよいよ諸人の疑惑を深くするのを懸念したのであろう、町の新聞記者らを呼び集めて、その事件の顛末《てんまつ》をいっさい発表した。それは佐山君が戸塚特務曹長から聞かされたものと殆んど大同|小異《しょうい》であった。諸新聞はその記事を大きく書いて、大尉に化けたというその狐の写真までも掲載したので、その噂にふたたび花が咲いた。
それと同時に、また一種の
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